大塚氏は大塚郷の菅股城から応永末年に、下手綱(高萩市)の竜子山城に移ったようである。『赤浜妙法寺過去帳』に、永享二年(一四三〇)「妙浄禅門 大ツカ 十二・十六」とみえる「妙浄禅門」が、竜子山城に移った最初の人物と考えられている。大塚氏以前の竜子山の支配者は、鎌倉府の御所奉行、寺岡但馬守(たじまのかみ)である。上手綱の朝香神社(森明神ともいう)所蔵の応永二十三年(一四一六)十二月十三日造営棟札に、「東殿源左兵衛守義持(よしもち)、鎌倉新御堂殿当君里見源基宗(もとむね)、当郡地頭寺岡平義之(よしゆき)」とみえる。「東殿源左兵衛守義持」は、将軍足利義持を指し、「鎌倉新御堂殿」は足利満隆(みつたか)のことである。また「里見源基宗」は、安房(あわ)国で勢力を振った里見義実(よしざね)の祖父である。
将軍義持の援助を受けて、関東公方足利持氏を倒そうとした上杉禅秀の乱で、これらの人物は禅秀方に加わって敗れてしまうのである。そのため足利満隆は応永二十四年正月に自殺し、里見氏も寺岡氏も多珂郡内の地頭職を失い、手綱の地から去っていった。『開基帳』によれば寺岡氏(平但馬守)は、応永三年菩提寺として上手綱村に曹洞宗の香林山長宏寺を開き、その家臣の藤原二郎四郎家信も応永二十年、同村に長泉院という菩提寺を建立している。しかし、合戦に敗れて所領を失い、上手綱の墓所を捨てて逃れ去ったのである。
寺岡氏の支配のあとを受けて、上手綱村に入ったのが大塚氏である。『妙法寺過去帳』嘉吉元年(一四四一)に、「道経禅門 五・十九 大ツカサワ」とみえる人物も竜子山に移ってきた頃の大塚氏の一族である。文安四年(一四四七)の「道秀禅門 九・廿九 大ツカ信州」とあるのは、初期の竜子山城主と思われる。大塚信州(信濃守)は、その後の大塚氏で名乗る者が目立つ。大塚信州(道秀禅門)の晩年は、決して平安なものではなかった。永享五年十二月、小野崎越前三郎は、佐竹義憲から手綱一方の地を料所(直轄地)として預けられ、永享七年には戦功により多珂荘政所(まんどころ)職を安堵されている。小野崎氏の手綱支配によって、大塚氏は新たな緊張感をもつのである。関東公方足利持氏、それと結ぶ佐竹義憲、その信任厚い小野崎越前三郎らの顔色をうかがって、寺岡・里見両氏追放後の手綱の農村経営に苦労したのである。
文明十七年(一四八五)の岩城常隆の多珂郡侵入によって占領された車領・竜子山領はその後、岩城氏に割譲され大塚氏は岩城氏に服属することになった。天文二十一年(一五五二)七月三日、大塚信濃守政成(まさなり)は佐竹義昭(よしあき)から「向後、無二の忠信為るべき候段、侘言(たごん)の上、壱家の例を為すべく候」という書状をもらっている。今後、大塚氏を佐竹の同族として待遇する、という意味である。その頃佐竹氏は、天文十六年から十九年にかけて江戸氏と合戦をくり返していた。天文二十年にようやく和議が結ばれ、江戸忠道(ただみち)はふたたび佐竹氏の旗下に従うことになる。こうした情勢をみた大塚政成は、岩城氏に属していながら佐竹氏にも忠節を尽すことを述べ一家の例の待遇を得たのである。天文二十四年政成は奥州の武将と一緒に上洛して、将軍足利義輝(よしてる)に拝謁し、黄金一〇両そのほか轡(くつわ)などを献上している。その後、佐竹義昭は白河晴綱(はるつな)の所領である陸奥南郷(福島県東白川郡)を奪うため石川道堅(みちかた)(晴光)と結んだ。道堅と不仲であった岩城重隆(しげたか)は、佐竹・石川の両氏にはさみ討ちに合うのを恐れ、永禄元年(一五五八)四月、多珂郡小里(久慈郡里美村)に出兵して佐竹義昭と戦った。大塚政成は両者の調停をし和議を成立させた。大塚氏はつねに岩城・佐竹両氏の勢力均衡の上に立ち、一族の安泰をはかったのである。