『常北遺聞』『竜子山記』『松岡地理志』に、「民間古老伝説云」とか「民間古記ニ曰」として、次のような話をのせている。応永二十三年(一四一六)三月十五日、南朝の皇孫定王は家臣の戸条伊勢守(いせのかみ)、中条播磨(はりま)守、北条陸奥守に護られて、菅股城主大塚貞成(さだなり)を頼って落ちのびてきた。貞成には初め男子が無かったので、定王を養子として娘の聟(むこ)とした。応永二十七年八月十五日、手綱に城を築いて定王を移した。それが竜子山城主の大塚信濃守である。以後代々信濃守を称し、皇孫五世が相続した。のちに土地の人が皇孫五世の霊を祀り、宝器を埋めて塚とし、王塚八所権現と名付けて城の守護神とした、というのである。
これにつき中山信名は『多珂郡鎮守帳』に「王塚」は「御塚」とあり、手綱の地は古代に郡家のあった所なので、もとは国造あるいは郡司の墳墓を祀ったものを「近世主祠ノ修験更テ王塚権現ニ作ル、思フニ大塚ノ音ヲ仮タルニテ、王塚ニ作ルハ非ナリ」としている(『新編常陸国誌』)。
定王に従ってきたという戸条伊勢守、中条播磨守、北条陸奥守などの家臣の名も、戸条(外城)、中条(中城)、北条(北城)など、それぞれ御城(本丸)を中心とした中城(二の丸)、外城(三の丸)、北城(北の丸)の城郭の名から考案されている。南朝の皇孫定王が菅股城の大塚貞成の所に落ちのびたのが、応永二十三年三月十五日、定王を養子として手綱に城を築いて移ったのが応永二十七年八月十五日とするが、三月十五日、八月十五日は王塚権現の春秋の祭日にあたっているのである。
したがって、王孫伝説は王塚権現主祠の修験によって造作された疑いが出てくる。『新編常陸国誌』にも、「近世権現主祠ノ修験者ノ説ヨリ出タル寛延四年ノ竜籠山古城記ニ、吉野南帝」云々とあるので、この話が寛延四年(一七五一)頃に広まり始めたことが知られる。宝暦九年(一七五九)九月二十五日、郡奉行久方蘭渓(くがたらんけい)が下手綱村庄屋善次衛門宅に泊った時、先の庄屋伊衛門がもっていたという書付を写し取っている。それにも南朝皇孫伝説が記されていたのである。
明和の頃、足洗村宿の入口往還の東にある天王塚と呼ばれる古墳を、村の若者が集って掘ったところ、石室の中から人骨とともに陣太刀一振りが出土した。その太刀の柄頭(つかがしら)は青くさびていたが、金の菊と桐の紋がついていた、というのである、若者たちは出土品を売り払って酒代にしようとしたが、庄屋や老人たちは、いずれにしても高貴の人の墓だろうと考えて、もとのように埋めたと『松岡地理志』にみえる。そして菊と桐の紋があるので、「王孫ニ疑ヒアルマシ」との断定がなされたのである。
この天王塚は、足洗にある前方後円墳のことである。墳丘は常磐線によって切断されているが、古墳時代後期のもので中世の墳墓とはちがう。
『松岡地理志』に天王塚を掘ったので、「其後村中疫病流行シ、十四、五人病テ死ス、其尊霊ノ祟リナラント云」とあるのは、疫病よけのために牛頭(ごず)天王が祀られていたことを物語る。
定王伝説のひとつのきっかけとなったのは、『赤浜妙法寺過去帳』の次の記事である。
大永元年辛巳 浄雄道清禅定門大塚信州十・十九
大永二年壬午 昌林□禅尼十一・廿三霜寅躰雄ノ上様
天文元年壬辰 長全尊霊大雄五・廿八
永禄四年辛酉 岳雄道雲公尊霊六月七日大塚信濃守殿五十二歳
永禄五年壬戌 雪継妙点公尊霊五・六春雄ノ御老母
大永元年(一五二一)十月十九日に没した「浄雄道清禅定門」の「浄雄」を「浄王(定王)と結びつけ、躰雄(大雄)、岳雄、春雄なども躰王、岳王、春王と解釈して、大塚信濃守を南朝皇孫の流れをくむ人物としたのである。天王塚は明治二十四年にも発掘されている。