南北朝時代の初め頃、車の地は多珂荘砥上(とがみ)と呼ばれていた。貞治五年(一三六六)二月十日の「奥郡役夫工米(やくぶたくまい)切手在所注文」に、「多珂庄下〓〈砥〉上十一町」とあり、華川町下小津田深山出土の応永二十四年(一四一七)十二月十三日在銘の鰐口(わにぐち)に、「多珂庄上砥上羽黒権現」とみえている。
砥上には南北朝時代には城郭が築かれ、砥上氏が城主となっていた。砥上氏は「佐竹譜代名字系図」によると、岩城二階堂氏の族といわれる。砥上の地頭として、車城を根拠に代々砥上一帯の地を支配していたのである。
文明十七年(一四八五)七月一日、車城は岩城常隆の攻撃を受けて落城し、城主は討死する。『赤浜妙法寺過去帳』に、文明十七年「花岳 車殿 七・一」とある。砥上氏を滅ぼした常隆は、同族の好間隆景(よしまたかかげ)を城主としたのである。『妙法寺過去帳』長享元年(一四八七)の記事に、「妙忠禅門 車彦二郎殿 十一・一日」とみえる。車落城から二年目に没した車彦二郎は砥上氏の生き残りか、好間隆景なのか明らかでないが、おそらく隆景の親族と思われる。
隆景の後裔について『常北遺聞』は、「東風―加風―一風―夕斎」などの風変りな名の人物を推定している。『常陸誌料』『新編常陸国誌』などもそれを踏襲している。しかし傍証史料に欠けており、信ずることができない。また、夕斎の子の車兵部大輔義秀が佐竹義宣(よしのぶ)と合戦し、天正十六年(一五八八)に上臼場で戦死した。そこで佐竹より車大隅(おおすみ)守を車城主に任じ、車丹波(たんば)守をその子としている。