車義秀は好間太郎左衛門とも称した。天正十六年(一五八八)に義秀と佐竹義宣が戦ったというたしかな史料は認められないが、天正十一年頃義宣の父義重と車氏の関係が悪化し、義重が車領に出陣したことは事実である。義重が家臣赤坂左馬助(さまのすけ)に宛た十一月三日付の書状に「在湯付為二脚力一条々預届候、本望候、然者好間太郎左衛門逆意連続之上、直々彼地へ押寄及二調義一候……」とある。この書状の意味は、「湯治先へ飛脚をもって連絡をくれありがとう。これで好間太郎左衛門の反逆が明らかになったので、私自身が車の地へ押寄せて攻めるつもりである」というものである。
佐竹義重に好間太郎左衛門の動向を飛脚をもって知らせた赤坂左馬助は、赤坂城(福島県東白川郡鮫川村)の城主で、天正初年から義重に仕えていた。赤坂氏は車領とも関係があったらしく、『浄蓮寺過去帳』には、天正十九年六月五日に没した赤坂下総守の内室や赤坂助右衛門の内室の法名が記されている。
また、十一月八日に田村孫三郎顕康(あきやす)が義重に宛た書状に、「抑三箱ヘ為二御湯治一御出張之由、承及候処ニ、好間方不儀之操候哉、就可レ被レ加二退治一、于レ今御在馬之由承候、無二済限一御陳労、御大儀之至奉レ存候」とあるので、義重は三箱(いわき市常磐湯本町)に湯治に出かけており、十一月九日前後には好間太郎左衛門退治のため出陣していたのである。義重の車領への出陣は荒川八幡宮(高萩市)の天正十一年十二月十三日造立棟札に「御車領分ハ此時分乱後ニ而上下手つまり」とみえるので、天正十一年と思われる。好間太郎左衛門義秀が佐竹義重に逆意をしきりに示したのは、義秀の子車丹波守が義重の勘気を受けて牢人するなど、義重の扱いに不満をもっていたのである。おそらくこの天正十一年の車の乱が、天正十六年の佐竹義宣と車義秀の合戦物語に発展したのであろう。