車城の規模

76 ~ 76

車城は『新編常陸国誌』によると群馬城または牛淵城、臼庭城とも称し、嘉元中(一三〇三~五)臼庭加賀守が居城し、天授中(一三七五~八〇)には砥上氏三世がこれに居り、文明に至りて岩城常隆がこれを亡ぼし、弟親隆を置いたという。

 標高六〇メートル前後の細長く延びる丘陵性山地を利用しており、南側には根古屋川が流れ水田が広く展開する。しだいに低くなる尾根を整地して一直線に、本郭、二ノ郭、三ノ郭そのほかの大小の郭を配置した戦国時代の典型的な連郭式山城である。その規模は直線距離にして四〇〇メートルを越すほどの壮大なものである。それぞれの郭は地山の凝灰岩を急傾斜に整形して防御的効果を工夫し、凝灰岩の屑石(くずいし)と土砂を郭内に敷き整地している。本郭跡には八幡社が鎮座し、二ノ郭との間の堀底道に井戸跡がある。城の南側の平地に根古屋の地名があるので、ここに平時の屋敷があったと思われる。城内へは現在、八幡神社の参道を通り、二ノ郭と本郭の間の堀底道から本郭内に入る。この道は切り通しの跡が新しいので後世に整備されたものであり、当時のものとは思われない。大手の位置は、今後の調査が必要である。


車城跡実測図


車城跡本郭下の堀底道