車丹波守も神谷座主館(ざすのやかた)(いわき市平)に知行替えになった。代わって車領に、どういう家臣が移ってきたのか明らかでない。菊多郡窪田城に移された梶原政景が、老臣を派遣して車・竜子山両城に置いたともいわれる。慶長五年(一六〇〇)六月には、小敷田村の内三〇〇石が佐藤大隅守、同じく三〇〇石が根本紀伊守の知行に宛られている。
天正十八年(一五九〇)七月に病死した岩城常隆には嗣子がなかったので、佐竹義重の三男で当時八歳の能化丸(のうげまる)(貞隆)が入って岩城氏を継いだ。そこで岩城家臣への牽制と能化丸擁護のために、丹波守を神谷に移したのであろう。中神谷に神護山一山寺という曹洞宗の寺院がある。丹波守は座主館に入り、向い山の寺を菩提寺と決めた。その後、丹波守の三回忌にあたる慶長九年に、竜門寺一三世日巌(にちがん)を招請して開基したという。境内に国井氏の建てた丹波の供養碑がある。