武勇の人

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車城の城主車丹波守は若年から武技を試みるため、諸国を遍歴したといわれている。『新編東国記』によれば、織田信長が安土(あずち)にいた頃岩城より白土・車・久保田氏ら三人が伊勢参宮に出かけた。そのおり、安土に立ちよったのである。信長公御前で猿楽の遊興があり、多くの人が集っていた。三人は宿の主人を伴なって安土城にいき、舞台楽屋に出入りする諸大名を尋ね歩いていた時、木下藤吉郎に出会った、と記している。


『新編東国記』

 車丹波守は、佐竹義重(よししげ)に仕えて厚遇された。元亀二年(一五七一)、家老和田安房守昭為(あきため)が芦名氏に通謀していると義重に告げ、昭為は追放されている。丹波は赤館(福島県東白川郡棚倉町)城代となり勢威を振った。武勇の将としての丹波に信服する武士が多かったらしく、元亀三年十一月十二日、車丹波守斯忠は、石井弥七郎に自分の名の「忠」の一字を与えている。この一字状によると、丹波の名は「斯忠」(つなただ・のりただ)と称したことが知られる。一般には「猛虎(たけとら)」とか「義照(よしてる)」といわれているが、元亀の頃は「斯忠」が正しい。


車丹波守斯忠の花押

 車丹波守は武勇には優れていたが、民政は不得手であったらしい。赤館城代も民政が悪いというので、義重の勘気を受けて牢人となり、代って和田安房守は帰参を許されている。天正十七年(一五八九)に大塚氏とともに岩城氏にしたがい、伊達政宗軍と対陣して大越(福島県田村郡大越町)の警固につき、天正十九年には蒲生氏郷(がもううじさと)の客将として、陸奥国九戸(くのへ)城(岩手県九戸郡九戸村)攻撃に参加したが、喧嘩(けんか)して氏郷から暇(ひま)を出されたと伝えられている。