上杉家の客将

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関ケ原の役が近付くと、上杉景勝(かげかつ)は浪人の招集を盛んに行って武備を拡充した。武名の高い上杉家の招きに応じて名だたる勇士がぞくぞくと馳せ参じ、上杉家は上山道及、上泉正俊、前田利太、永野重俊、小幡将監、車丹波、岡野左内など一〇〇〇石以上の大身を二二名も召し抱えたのである。車丹波守は直江(なおえ)山城守兼続(かねつぐ)支配の組外衆に属し、丹波は一〇〇〇石、子の三弥は三〇〇石をもらっている。丹波はなぜ親子ともども上杉家の家臣となったのであろうか。この間の事情を『新編東国記』は、次のように記している。慶長五年(一六〇〇)四月二十八日、徳川家康は島田治兵衛を佐竹義重のもとに遣わし、「世上の風聞は上杉一味と沙太これあり、さなく候はば上洛早く致さるべし」と伝えた。これに対し義宣は「全く景勝に一味仕らず候、さりながら誰人によらず、秀頼公をないがしろにし、我党を振まう輩へ一矢射かけ、忠節を致すべく存じ候」と返事した。その後に「車丹波守猛虎と申すおぼえの侍大将に五百余の勢を相添へ、加勢をして会津へ指越されけり。此丹波守は常州車城主なり。かくれなき勇者にて、白四半に火車を書いて指物(さしもの)にしたりける。是れは行く所に人を取ると云ふ事なるべし」とある。

 これによると、車丹波守は佐竹義宣の内意を受けて、上杉家の客将になっている。『上杉年譜』によると関ケ原の役が始まり梁川(やながわ)城を守備する須田大炊介を救援するため、横田大学、大塔小太郎、黒屋太郎左衛門らとともに派遣されて伊達政宗軍と戦い、阿武隈川岸の瀬上で功を立てている。関ケ原の役の翌年七月二日、直江兼続は代官山田喜右衛門に、車丹波組は今後は御用に立たないであろうから召放ち、一切扶持などをつかわすことは無用であること、別に質のよい者をみはからって組下につけることなどを命じている。上杉景勝は、翌月に米沢に移封したから丹波も郷里にもどったことであろう。


車丹波の名のみえる直江兼続分限帳