慶長七年(一六〇二)、佐竹氏の秋田移封に際し、車丹波守は太田城にきて佐竹義重に徳川氏との一戦を勧めたが、果たさず丹波は女婿大窪兵蔵久光、馬場和泉守政直らと一揆を企てて失敗し、水戸で斬首されたといわれる。この一揆の史料は、すべて江戸時代の伝聞であり、事件の正確さに欠ける。『新編常陸国誌』によると、丹波・兵蔵・和泉らは水戸城奪回の陰謀中に企てが発覚し、七月十日に三〇〇人あまりで那珂川を渡り夜襲したが、敗れて捕えられたという。この時、笠間城主で水戸城に在番した松平康重のことを記した『聞見集』には、丹波・兵蔵・和泉らが牢人・町人などを引き連れ開門をせまったので、申し分を聞き座敷牢に入れたとあり、『慶長見聞書』では兵蔵・和泉らは生け捕り、丹波は田舎に潜伏中に捕えたと記す。『常陸三家譜』では七月十八日に陰謀が露見、三名は捕えられ、吉田で斬首、青柳にさらし首とあり、真相は明らかでない。