その後の車氏

86 ~ 86

岩城家没落後、その再興のために江戸に赴いて尽力していた家臣団の中に、好間兵部大輔の名が見受けられる。実はこの人物は車氏の一族なのである。再興運動も当初は思うようにならず、好間氏は主命もあり、岩城家のあとに新領主となった鳥居忠政に強く招かれたためもあり、ついに同家に客仕し、その子兵部小輔隆鎮は忠政から二〇〇〇石の高で厚遇された。これは、他の家臣と比較して特別の待遇であった。なお隆鎮の妹は忠政の室として嗣子ほか数人の子の母となっている。

 後年、鳥居家は、忠恒の死後、相続手続問題によって一家没落の悲劇をみるのであるが、好間家はその後、鳥居家外戚の新庄藩戸沢家に仕えた。当初は主家外縁の臣として枢機の任にあたるなど重い地位にあったが、後年故あって減禄された。しかし明治維新にいたるまで家名がつづいた。新庄における墓は同市の十日町曹洞宗瑞雲院墓地にある。


好間氏系図


好間氏の墓(新庄市 瑞雲院)

 一般に車氏は、佐竹氏の左遷後水戸城奪還を企てて一揆をおこし、事失敗に帰して磔刑に処せられ、一族も武士としての途を断ったという。しかし、これを史実とするには強い疑問がもたれている。車氏は好間氏となって存在していたのである。