大正の初めに華川町下小津田深山(しんざん)の地を開墾した時、鰐口(わにぐち)が出土している。山麓を切り開いて、羽黒権現の社殿が建てられていたようである。現在も土塁や参道が残っている。社殿跡の裏手から鋳銅製の鰐口が出土したといわれる。鰐口は神社・寺院の堂前の軒先にかけ、参詣人は鉦(かね)の緒といわれる布縄で打ち鳴らすものである。金口・金鼓・打金・打響・打鳴などの呼称もある。
深山出土の鰐口の寸法は、最大径二〇センチメートル、最大厚六センチメートル、撞座径八センチメートル、中区径二センチメートル、外区径二・五センチメートル、口唇出一センチメートル、耳高三センチメートル、耳幅四センチメートルで、左耳に鉄製吊環(つりかん)が残っている。外区銘帯の左右に、次のような刻銘がある。
(左側) 応永廿四年丁酉十二月十三日願主幸次敬白
(右側) 多珂庄上砥上羽黒権現鰐口
応永二十四年(一四一七)といえば、佐竹義憲(義人)の時代である。義憲は山内上杉家から養子に入ったので、佐竹一族は争いが絶えず、応永二十三年十月におきた上杉禅秀の乱でも、佐竹義憲と山入氏は対立した。応永二十四年四月、義憲は山入一揆に呼応した稲木義信を稲木城に攻め滅ぼしている。また多珂荘手綱郷の地頭であった里見基宗、寺岡義之も、禅秀に味方したために敗れて地頭職を失うなど、激動の時期であった。
「願主幸次(ゆきつぐ)」については明らかでないが、上砥上あたりを領する地頭であろうか。「佐竹譜代記録」には、「多珂庄奉公人外様五人」として、車・大塚・森・臼庭・境の諸氏をあげている。「長谷密蔵院旧記」によると、永和三年(一三七七)頃砥上の地頭であったのは車氏(砥上氏)なので、車氏との関連が考えられる。「願主幸次」は激動期にあって、所領の安堵と武運長久を羽黒権現に立願したのであろう。