妙法寺過去帳

90 ~ 92

妙法寺は日蓮の高弟で越後阿闍梨(あじゃり)と号した日弁が、嘉元元年(一三〇三)、多珂郡赤浜(高萩市)に創建した法華宗の寺院である。江戸時代には堂宇が荒廃し、一六世日英のとき徳川光圀(みつくに)の命により成沢村(日立市)に移し、大高山宝塔寺と称した。過去帳の原本は高萩市赤浜の願成寺に現存し、写本が『続群書類従』に収められている。


日弁の墓(高萩市赤浜法華堂)


日弁の花押(『松岡地理志』より)

 過去帳は応長元年(一三一一)から始まり、元禄七年(一六九四)で終わっている。実際の檀家の記載は応永年間(一三九四~一四二八)から書かれており、天文十二年(一五四三)までは同筆なので、書き写したものであることがわかる。以後は書き継がれている。応永二十三年から元禄七年までの二七八年間に、一四六五人の死亡者が記されている。俗名・死亡地・死亡者の血縁関係や死亡原因などを記したものもあり、茨城県の中世史研究の貴重な史料となっている。

 過去帳には北茨城市域の地名が広い範囲にわたってみられ、当時の法華宗の布教状態や地名の歴史を知ることができる。


『赤浜妙法寺過去帳』

 たとえば、応永二十三年(一四一六)の記事に「兵部」、応永三十三年(一四二六)の記事に「ヲノ」、「トカミ」、「関本」、「松井」、「石岡」、「落合」、「アハノ」、応永三十四年の記事に「ヒタナ」、「アシアライ」、永享二年(一四三〇)の記事に「大ツカ」、宝徳三年(一四五一)の記事に「下トカミアクツ」、康正二年(一四五六)の記事に「石サワ」、長禄三年(一四五九)の記事に「平方」、「ウスハ」、文明十年(一四七八)の記事に「大ツ」、文明十七年の記事に「マス」、「車」、延徳三年(一四九一)の記事に「大房」、明応四年(一四九五)の記事に「新田」、明応八年の記事に「ヤサシ」、文亀元年(一五〇一)の記事に「島サキ」、永正元年(一五〇四)の記事に「日向」、永正二年の記事に「タカイ」、永正六年の記事に「神岡」、永正十二年の記事に「中田」、永正十七年の記事に「上ノタイ」、天文十四年(一五四五)の記事に「むら山」、天文二十二年(一五五三)の記事に「イソ原」、永禄三年(一五六〇)の記事に「セキ子〈ネ〉」、「アワフノ」、「イシ内」、永禄七年の記事に「ケツリキ」、永禄十一年の記事に「足洗シフカキ」、天正八年(一五八〇)の記事に「ナカノウチ」、「ヤマコヤ」、天正十一年の記事に「クホタ」などがみえる。

 「兵部」は中郷町日棚の小字であり、「ヲノ」は中郷町小野、「トカミ」は華川町下相田の小字として残り、「関本」は関本町関本、「松井」は中郷町松井、「石岡」は中郷町石岡、「落合」は中郷町上桜井か日棚、石岡、豊田ないしは華川町中妻の小字である。「アハノ」は中郷町粟野、「ヒタナ」は中郷町日棚、「アシアライ」は中郷町足洗、「大ツカ」は磯原町大塚、「石サワ」は華川町中妻の小字である。「平方」は平潟町、「ウスハ」は華川町臼場、「大ツ」は大津町、「マス」は関南町関本下の小字である。「車」は華川町車、「大房」は元和三年(一六一七)の記事に「大ダハウ」、元和九年の記事に「大多房」とあり、華川町小豆畑の小字である。「新田」は永禄三年(一五六〇)の記事に「ニイ田」とあるので、関南町仁井田のことである。「ヤサシ」は中郷町矢指、「島サキ」は中郷町松井の小字、「日向」は中郷町粟野の小字である。「タカイ」は大津町北町の小字であり、「神岡」は関南町神岡、「中田」は磯原町大塚の小字「中ノ田」であろう。「上ノタイ」は華川町下相田の小字である。「むら山」は関本町福田の小字、「イソ原」は磯原町磯原、「セキ子」は華川町中妻の小字、「アワフノ」は元和六年の記事に「磯原アワフノ」とみえる。「イシ内」は中郷町日棚の小字石打場、「ケツリキ」も日棚の小字である。「足洗シフカキ」は、現在の足洗の小字にない。「ナカノウチ」は中郷町粟野の小字であり、「ヤマコヤ」は関本町富士ケ丘の旧名である。「クホタ」は華川町下小津田の小字である。


花園山の神が磯出する亀升磯