戸沢氏の支配

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関ケ原合戦後の慶長七年(一六〇二)を境に、多賀北部の支配関係は大きく変化した。それは石田三成方に心を寄せていたとみられる佐竹氏が出羽秋田に左遷させられ、佐竹氏とつながりのあった岩城氏は領地没収となり、その跡地が徳川方の大名戸沢政盛の領地となったからである。

 政盛は、外様大名ではあるけれども、関ケ原合戦にははっきりした徳川方であり、会津の上杉景勝を北方より牽制して、東軍の立場を有利にすることに功があったため、戦後茨城郡小川(東茨城郡小川町)の城主となり、多賀、茨城二郡の内において四万石を領することになった。その後、下手綱(高萩市)の地に松岡城を築いて慶長十一年ここに移った。そのため戸沢氏の領地はすべて松岡領と称されることとなり、後年、出羽移転となってからも、この時代に召抱えられた家臣たちは、のちのちまで「松岡御譜代」と呼ばれていた。

 北茨城地方の諸村はいずれもこの政盛の領地の北の部分に属し、家臣のおも立った者は、みな領内の地にそれぞれ知行地をもつ地方(じかた)給与であったらしく、政盛発行の知行充行状(ちぎょうあてがいじょう)が、今も何点か残っている。

 元和八年(一六二二)六月七日、政盛は二万石を加増されて出羽新庄に移封となった。したがって、当地方を領地として支配していたのは、わずか二〇年ほどであるが、城地の修築、日光東照宮の普請手伝い、大坂城番、館山事件鎮圧出動準備など、多額の出費を必要とすることが多く、こうした面を打開しようとして新田開発などの事業に着手したのであったが、中途にして新庄移転となった。


戸沢政盛宛徳川家康書状(上・慶長5年7月7日 下・慶長5年11月20日)


戸沢政盛寄進の日光東照宮石燈籠