水戸藩・棚倉藩の分領

96 ~ 97

戸沢氏の移封後、その旧領は二分され、南側三万石は水戸藩主徳川頼房の領地となり、北側一万石は陸奥赤館(のち棚倉に変更)の丹羽長重の領地に編入された。北茨城市域の内、水戸藩編入となったのは大津町、磯原町、中郷町の区域に該当する村々であり、平潟町、関南町、関本町、華川町の区域の村々は、いずれも赤館の丹羽氏の所領に編入ということになった。


近世北茨城地方の支配区分図(享保期)


棚倉藩主交替一覧表

 丹羽長重は元和八年(一六二二)十一月付で常陸国古渡(ふっと)(稲敷郡桜川村)から陸奥国赤館(福島県東白川郡棚倉町)四万石に移封になったが、同年六月には一万石を加増されて五万石になった。当地方に丹羽氏の領地ができたのはこの時である。寛永元年(一六二四)、長重は、赤館の西南およそ二キロメートルの棚倉の地に亀ケ城を新築してここに移った。棚倉藩領と呼ばれたのはこのためである。時代が下って慶応二年(一八六六)十二月、時の棚倉藩主松平康英が武蔵川越(埼玉県川越市)に移封となった際、常陸国多賀郡内の棚倉領の村々は、川越藩の所領に編入となった。したがって、当地方には棚倉領は存在しないこととなったのである。

 ところで、当地方の近世関係の文書にはよく「松岡郷○○村」と記したものが多い、これは棚倉藩が藩政の必要上用いた地域区分の称呼で、勿来(いわき市勿来町)方面の諸村を窪田郷、それに対して多賀郡内の諸村を松岡郷と呼んでいた。これは、これらの村々が、旧松岡城主戸沢政盛の所領となっていたため、従来松岡領と称していたので、それを踏襲し、松岡郷と称したものと考えられる。

 一方、大津町、磯原町、中郷町の諸村は、いずれも徳川家康の子頼房を初祖とする水戸徳川家に所属し、その支配を受けることとなった。戸沢氏移封後、水戸藩に編入されたこれらの村々は、以後明治にいたるまで水戸藩領であったが、文化元年(一八〇四)に、附家老中山氏が松岡を居所とし、知行地として給せられていたところを別高(べつだか)と称し、水戸領内松岡附と称するようになった。これは中山氏が、御三家の附家老であるという立場から、特別の扱いを受けたためであろう。もっともこれも斉昭の天保改革で廃止され、大名待遇の別高の称はなくなった。


水戸城の三階櫓(右)
棚倉城跡(左)