旗本知行地の出現

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棚倉藩主内藤家第二代信良は、寛文十年(一六七〇)九月二十三日、「多賀郡の内新墾田五千石を弟信全に分与したい」と幕府に願い出て許され、分家を創立させた。旗本五〇〇〇石内藤家がこれである。分家の時に分与された五〇〇〇石の村というのは、当地方の神岡上、薄葉、中妻、車、下相田、小津田、少豆畑、花園、福田の諸村と上野村(関本上)の一部であった。新しい開墾田の名目のもとに分与された五〇〇〇石というのは、実は新墾田ではなく、検地の時に測量を厳しくして、五万石の領地からその十分の一を新しく加えたものであったという。それは当時の支配者によくみられた常とう手段であった。

 旗本内藤家は信全、信有と二代つづいたが、二代信有の時、元禄十一年(一六九八)三月七日付で駿河国富士・駿東二郡の内に知行地替えとなった。これは幕府の都合によるもので、その前年の元禄十年七月二十六日に決定した五〇〇俵以上の廩米(りんまい)受給の旗本に知行地を与えて、旗本たちに行政上の苦労などを負担させ、幕府自体の負担を軽減しようという意図によるものであったとされている。そのため、内藤家から引き上げた知行地は、新たに、稲垣、秋山、渥美、一色、佐野、宮崎、山岡の諸家の知行地として分与された。稲垣氏は一〇〇〇石、他の六家はいずれも五〇〇石ずつであった。稲垣氏は神岡上村一村一給(ただし、他国にも知行地あり)、他の諸氏は各村相給(あいきゅう)の知行形態となった。これは平均化による平等負担と、零細支配者のため、被支配層の抵抗力を細分して無力化するためでもあったという。

 これらの五〇〇石六家の内、佐野、山岡の二氏は中途にして改易(かいえき)となり、その分が幕府直轄つまり代官支配地となった。代官の支配地は御料(天領)と称されていた。その内、下小津田村は一村全体が御料であった。


郷代官滑川平次右衛門惟正肖像(旗本知行地には農民出身の郷代官が置かれた)


郷代官の家(中妻)


組合村議定書の一部


幕府代官寺西封元の教諭書