村のようす

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村の中央を里根川が東に流れ、そこから引かれた用水が田をうるおし、北には刈敷(かりしき)山(採草地・入会地)が重なる。里根川に平行して棚倉街道(平潟街道)が東西に走り、街道を中心に集落が点在する。村中央の辻には高札場(こうさつば)が設けられ、その西よりには鎮守重殿明神の森がみえる。さらに西の方村境に近く、村民の旦那寺善応寺がある。これが左頁の写真にみるほぼ二四〇年前の関本上村の姿である。そして、この村絵図にみるように、村は、山と水を基本的な立地条件として、農民の日常生活や生産活動における共同の場として成立した。


延享4年の関本上村絵図

 北茨城市域の村は文禄(一五九二~九五)の頃二九か村であったが、元禄(一六八八~一七〇三)の頃には三七か村に増えた。この間約一〇〇年、人々の生産への努力が新たな村を成立させたといえる。たとえばこの一〇〇年間に、神岡村から福田村が分離独立し、さらに神岡村は上・下二村に分かれた。桜井、小津田、臼庭の各村が上・下二村に分かれたのもまたこの時期である。これら元禄の頃までに成立した当地方の村々は、その区域はほぼ現在の大字と一致し、戸数は六、七〇戸、人数は三八〇人前後というのが標準であった。

 ところで、近世の村のようすを知り得るものに「村明細帳(むらめいさいちょう)」(村鑑(かがみ)、村差出(さしだし)帳)がある。村名、村高、年貢課役、戸口、用水、山林などの状況が記された帳簿である。上の写真は延享四年(一七四七)の才丸村の差出帳であるが、家数四八軒、人数二一二人、その内二人が出家、一二九人が男、八〇人が女、一人が座頭とみえる。当地方の村としては、やや小村であったといえよう。


延享4年常陸国多珂郡才丸村差出帳