検地と年貢

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検地は田畑屋敷地を一筆ごとに測量して、面積、等級、一年の標準収穫高(分米(ぶんまい))を決定し、その所有者(名請人(なうけにん))を登録し、村の田畑屋敷地の総面積、総収穫量(村高)を確定する作業である。その結果は検地帳(けんちちょう)にまとめられ、これが年貢課役の取り立て、農民支配の基本台帳となった。北茨城地方においては、岩城氏時代の文禄四年(一五九五)に太閤検地、岩城氏没落後の慶長七年(一六〇二)に徳川氏の検地が実施され、寛永十八年(一六四一)には水戸藩、承応二年(一六五三)には棚倉藩が、それぞれ全領検地を行っている。時代が下って天保末年、水戸藩は天保改革の一環として二度目の全領検地、いわゆる天保検地を実施している。

 右下の写真は承応二年棚倉領山小屋村の検地帳の内容の一部である。この検地帳によると、山小屋村の田畑屋敷地の総面積は九六町六反三畝余、総収穫量は八二三石余である。田と畑屋敷地との割合は、田が七割、畑屋敷地が三割である。等級は田が上・中・下の三段階、畑が上・中・下・下々の四段階に分けられ、この内下田は田総面積の約八割、下畑と下々畑は合わせて畑屋敷地総面積の約七割を占め、地味の悪さを物語っている。筆数は一三九五筆、名請人は一三六人である。一筆の最小値は五歩、つまり畳一〇枚ほどの広さである。持高の最低は六歩(分米一升八合)、最高は三町五反余(分米三一石)である。耕地所有別からみた階層構成は、七反未満が七六人(名請人総数の六割弱)、七反以上一町五反未満が四七人(三割強)、一町五反以上一三人(一割)で、下に厚い構成となっている。以上が検地帳からみた山小屋村の姿である。このように検地帳は村のようすについて実に多くのことを語ってくれる。しかし、検地帳の本来の役目は、あくまでも年貢徴収のための基本台帳にあった。


承応2年山小屋村検地帳

 年貢は、検地によって確定した村高に、四割ないし五割といった年貢率(免(めん))をかけて年貢高を決定し、徴収される。四公六民とか五公五民といわれるのがこれである。決定された年貢高は、村に通達される。その通達書を年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)(年貢免状、一本割付(いっぽんわりつけ))という。上段の写真は、元禄六年(一六九三)小豆畑村に出された年貢割付状である。

 小豆畑村の村高は七五九石余である。ここから川欠(かわかけ)、山崩などで収穫不能の量を引き、残りに免をかけて年貢高を決める。とくに小豆畑村の場合、腰越(こしごえ)、明部(みょうぶ)、馬飼(まかい)は山間部であることが考慮され、免は低い。すなわち、田は本郷四割、腰越三割、明部二割五分、畑は本郷四割一分、腰越三割三分、明部二割七分である。馬飼は田畑合わせて約一割である。この年小豆畑村は、年貢として籾一一〇六俵余、金二五両と銭二貫文余が賦課された。田租は米納、畑租は金納であった。

 以上は、本途物成(ほんとものなり)と呼ばれる正租である。このほかに小物成(こものなり)、夫役(ぶやき)、高掛物(たかがかりもの)などの雑税があった。これらは、山年貢、竹藪年貢、江戸薪木代、役雉子(やくきじ)、藁代、縄代、渋柿代、荏(え)代、漆代、駒売買口銭(こうせん)、江戸登銭、御蔵前入用、御伝馬宿(おんてんましゅく)入用、六尺給(ろくしゃくきゅう)などその名目は種々雑多であり、農民の負担は大きなものがあった。

 これらの正租、雑税は、個々の村民にではなく、すべて村に賦課された。名主(庄屋)、組頭はこれを村民個々に割りあてて、取り立てたが、納入はあくまでも村の共同責任であった。年貢が無事納められると、領主から村に対して、納税領収書ともいうべき年貢皆済目録(かいさいもくろく)(年貢皆済状)が渡された。下段の写真は文化三年(一八〇六)小豆畑村の皆済目録である。この当時小豆畑村は御料(ごりょう)(天領)、旗本領の相給地(あいきゅうち)になっており、写真にあげたのは御料分のものである。「寺重次郎」とあるのは、名代官として知られた寺西重次郎のことであり、その左下に小さく、「小豆畑村 名主 組頭 惣百姓」とある。これが宛名である。この書き方にも領主と農民との支配関係がはっきりと示されている。


小豆畑村の年貢免状(上)と年貢皆済目録