近世の村にあって村民の中心をなすのは本百姓であった。夫婦とその父母・子どもで構成される家族(単婚小家族)をもち、家屋敷、生計を立てるに足る耕地、その耕地を耕すに必要な農具をもった農民である。ところで、近世の農業にあっては、水と肥料としての刈敷(かりしき)の確保は不可欠であった。しかし、用水路の整備と採草地(入会地)の設定管理は、農民個々の力でできることではなかった。ここに農民は共同の生活の場を営むこととなった。一方領主は農民支配を行う上で、これら自治的に運営されている生活の場を、政治支配の行政の末端機関に組みこみ、これを村とした。
村には村役人と呼ばれる名主(庄屋)、組頭、百姓代の三役が置かれた。これを村方三役(むらかたさんやく)(地方(じかた)三役)と称し、領主の指揮・命令を受けて村の管理にあたった。
名主(庄屋)の任務は、村に関する一切の事務で、年貢の納入、道橋・用水の普請、戸籍、宗門改、耕作奨励、借金の証印など村民の生活全般におよんだ。名主には村内の有力者が選ばれ、写真のような任命状が出されている。ところで大津や磯原のような浜方の村では、名主のほかに舟名主(舟庄屋)が置かれ、漁業行政の任にあたった。この場合、村全体の運営にあたる名主を岡名主(岡庄屋)と呼んだ。
組頭は名主の補佐にあたった。村はいくつかの組に分けられ、そのそれぞれに置かれた。その数は村の大きさによるが、普通四、五名であった。百姓代は、名主、組頭を除いた全村民を代表する意味で、名主、組頭の行為に不正のないように監視するものであり、名主、組頭とはその性格をことにした。水戸藩ではなぜか、この百姓代は置かれなかった。
領主は年貢確保を第一義とした。検地によって農民を土地にしばりつけ、年貢負担者としての本百姓の維持につとめた。それがために農民は勝手に土地を売ることも、土地を離れて別の職業につくことも許されず、衣食住も厳しい制限を受けた。農民の衣服は布木綿と定められ、米食が抑えられ、雑穀食が奨励された。茶を買ってのんではいけない。煙草はひまと金をくい、火の用心も悪くなるからやめるように、とまで規制された。耕作物は五穀を主とし、それ以外は必要最低限に抑えられ、煙草、菜種などを作ることは固く禁じられた。そして、朝早くから夜おそくまで働くことを強制された。
農民統制の上で、キリスト教禁止もまた厳しかった。農民はキリスト教徒でないことを証明するために、踏絵を行い、各自の宗派に属する寺に登録させられた。これを宗門改(しゅうもんあらため)といい、檀家制度(だんかせいど)の実施であった。このために作成されたのが宗門改帳で、一種の戸籍簿といえる。
農民統制の達(たっし)は、掟(おきて)、定(さだめ)、触(ふれ)、条目(じょうもく)などと呼ばれ、名主が村民に読み聞かせるのが普通であったが、とくに重要なものは高札(こうさつ)に掲げて直接村民に示した。上の写真は、切支丹(きりしたん)禁制の定とその高札が掲げられたであろう高札場の位置を示した山小屋村の絵図である。
以上のように農民は生活全般、しかもその細部にわたって厳しく規制されたが、さらにそれを徹底させるために、連帯責任と相互監視を目的とした五人組の制が設けられた。水戸藩では、長く十人組の制がとられた。