松井村は、村の東が大北川に接しながら、台地上に位置するため、用水は天水にたよるのみで、人々は水不足に悩みながら耕作に従事していた。そこで、今から約三〇〇年前、時の庄屋惣左衛門(沼田姓)は、この水不足を解消するためと、新田の開発をかねて用水路の開削を思い立った。惣左衛門は水不足に悩む近隣の村々へも参加を求め、多くの人々の協力のもとに計画を立て、水戸藩へ工事の許可を願い出た。
工事は寛文八年(一六六八)に着工、翌年完成した。しかし、許可が下りるまでの努力、工事中の測量や岩盤を切り開く技術、漏水を防ぐ工夫、多くの人々を指導し、大工事をつづけた忍耐など、どれひとつをとっても惣左衛門は命がけで、この工事が完成しなかったら、死をもってつぐないたいと、はりつけ柱や槍とぎ石を大山祗神社の境内に準備したなどの逸話が現在にまで伝わっている。事実一度は通水しても下流まで水がとどかなかったことなどもあった。
水の取入口は大北川の支流加露川(かろがわ)に求め、水路は山の尾根すじを通り村へ引かれた。この開削工事のために、惣左衛門たちが藩に提出した「松井村新江御普請御目録」によると、延長六九九二間、人足四七七五人と目論まれている。
用水完成後、惣左衛門はその功を賞され、苗字帯刀、麻上下着用を藩から許され、「主計」の名と、新田の中から九石七斗八升五合の地が与えられた。約一〇石の土地である。用水はこのため、「十石堀」と称されるようになった。