近世の農業は水田稲作農業が主体であり、それゆえ水の確保は何にもまして重要だった。
長い戦乱の間に、鉱山開発の技術、築城技術が飛躍的に発展し、それに伴ない用水土木技術もいちじるしく進歩した。近世に入るとこれら技術を駆使して、荒れるにまかせた河川をおさえ、用水路を設け、新田開発が盛んに行われた。前節で述べた十石堀の開削とそれに伴なう新田開発もまた、右のような気運の中で行われたものである。浄蓮寺で取水し、小豆畑―下相田―中妻を流れる高田用水、富士ケ丘に取水口を設けた椿淵用水、関本上に取水口を設けた福田用水、神岡、粟野などの山腹に残る用水池など農民の水確保の努力の跡がしのばれる。
このような努力の上に、北茨城地方においても新田開発は活発に行われた。寛永十二年(一六三五)、水戸領一六か村の本郷高は約九一〇〇石、新田高は約一二〇〇石とある。本郷高を一〇〇とすると、本郷高と新田高の合計は一一三となる。一割強の増加である。耕地面積にしておよそ一二〇町の増加といえようか。とくに木皿村の場合は、本郷高約四五〇石、新田高約三三〇石で、二倍近くの増加である。以上は水戸領一六か村だけのことであり、他に里根川流域の開発も盛んに行われたと考えられる。それは、神岡村からの福田村の独立、そして神岡村の上・下二村への分村が、新田開発の結果であったと考えられるからである。
近世の初め新田開発による耕地の増大によって飛躍的に発展した農業は、近世後期には、農業技術の進歩をみることとなる。
農具としては、備中鍬、千歯扱、唐箕が使われ、労働力の軽減に役立った。作物の品種と肥料についても改良がなされた。当地方に残された村明細帳によると、稲種は、早稲が三春、松川、中稲は永楽、晩稲は春から、他にあらき、えん方、徳宝、上楽、えみこなどが播かれた。畑作は大麦、小麦、稗が主で、他に粟、そば、大豆、小豆、かぶの類、前栽(せんざい)(野菜)が栽培された。近世を通じて当地方ではこれといった商品性の高い作物はあまり栽培されなかった。肥料は、刈敷、馬やごいの自給肥料が主で、干鰯、鰹粕などの金肥も享保頃には使われ始めている。
近世農業の基本は、水と山にあった。そして水と山が重要であっただけに、それらをめぐっての争い(水論(すいろん)・山論(さんろん)と呼ぶ)もしばしばくりかえされ、時には血をみることもあった。
たとえば、文政四年(一八二一)六月には、日照りつづきで水不足に悩む下桜井村の農民三〇余人が、上桜井村から石岡村に至る堰々を打破るという事件がおこり、同月、上相田村と内野村とが水引きで争っている。
山論も、元禄十一年(一六九八)花園山の利用をめぐり、満願寺領農民と花園村、水戸領四か村、車郷七か村との間で争われた事件、享保五年車村と上薄葉村ほか二か村との秣場争い、元文二年(一七三七)山小屋村内の争いなど数え上げればきりがない。宝永七年(一七一〇)には関本上村ほか二か村と陸奥国菊多郡窪田村(いわき市勿来町)との間に、村の境界争いがくりひろげられた。争点の場は、村境というだけでなく、陸奥と常陸の国境であり、山でもあった。窪田村は峯を越えた沢通りを村境であると主張し、関本上村ほか二か村は、峯通りを主張した。争論は窪田村の勝となり、関本上村ほか二か村は、貴重な採草地を失うこととなった。ここに確定した村境は、同時に国境であり、現在の県境ともなっている。
水と山が、近世農業の生命線であってみれば、それに係わる争いがくりかえされたのもまた当然のことであったろう。