平潟、大津と良港にめぐまれた北茨城地方は、漁業も盛んであった。
文禄四年(一五九五)の『岩城領小物成目録』によれば、平潟村二〇艘、大津村一三艘、関本下村三艘、磯原村五艘、足洗村二艘の漁舟がある。この時より約一七〇年後の宝暦十三年(一七六三)には、大津村六三艘、磯原村二〇艘、下桜井村、小野矢指村各二艘とある。船種は、縄小舟、鰹舟、艪舟、地引舟である。
右の宝暦の記録は、水戸領だけの書上げで、平潟村などが明らかにできないのは残念であるが、大津村の漁業の発展はこれでおおよそは知り得よう。
大津村は、「漁をもって第一の業とする」といわれ、水戸藩の民政家小宮山楓軒は「大津村は漁業繁栄の土地で、船八〇艘、地引網五二段ある。四月より九月までの魚は白川、須賀川に、十月より三月までの魚は江戸にそれぞれ運んで売っている。四ツ倉浜の魚をも買入れ、江戸に出している」とその繁栄のようすを述べている。大津村の絵図にみるように、人家は海岸にせまって軒を連ね、「水戸藩の一小都会」とうたわれた。
大津村の漁獲物は、鰹、鰯、鰤(ぶり)、鮫(さめ)、鰺(あじ)などであった。文化十四年(一八一七)の七、八の二か月に、二七艘の鰹船で約一五万八〇〇〇本の鰹を水揚げしている。これら漁獲物は、近くは水戸、太田、大子、遠くは白川(福島県白河市)、須賀川(福島県須賀川市)、下野(栃木県)、江戸方面へ売り出された。あるいは、鰯は干鰯(ほしか)(肥料となる)に、鰹は鰹節に加工されてもいる。文政五年(一八二二)の諸国鰹節番付表(左頁写貞)の前頭の後の方に、「常州大津節」「奥州平潟節」とみえる。商品としての評価は高いものではなかったにしろ、名が知られていたことはたしかである。これら漁獲物は、五十集(いさば)の手によって取り引きされた。
ところで漁獲物には分一役(ぶいちやく)、漁船には船役という雑税が課された。分一役とは、漁獲高の二〇分の一ないし一〇分の一にあたる量を金納するものであり、船役とは、一艘につき定められた額を上納するものであった。
漁師にとって、板子一枚下は地獄というが、時化にあっての不慮の災難はしばしばであった。五人乗の縄船遭難・四人溺死、四人乗のわかめ取りの伝馬船遭難・一人水死、八人乗の鰹船破船・一人水死、一一人乗の鰹船破船・五人溺死といった記録がつづく。とくに天保十一年(一八四〇)十月二十六日、平潟港で大時化により一時に五三名の水死者を出すといういたましい大難船がおこっている。
次に川漁と製塩にもふれておく。
川漁は大北川で行われ、鮭、鱒、鮎がとれた。すでに寛永年間(一六二四~四三)大北川沿岸の水戸領の村々は、鮭の運上を命じられ、石岡村は鮎の運上をも命じられている。以後近世を通じて鮭、鮎の運上金が課されており、川漁がつづけて行われていたことがわかる。
製塩は、文禄の頃神岡、磯原、小野(小野矢指)、足洗の各村で行われていたが、その後の消長は明らかでない。文化十四年に小野矢指村塩竈組合二一人が燃料確保のために山払い下げを水戸藩に願っている。文久二年(一八六二)には、やはり小野矢指村で石炭を燃料とした製塩の計画があったが失敗している。これらの記録から、ほそぼそながら製塩がつづけられていたことがわかる。