近世も中期以降になると、人口の減少、荒地の増加というように農村の疲弊がいちじるしくなってきた。
天保十三年(一八四二)七月、棚倉藩領松岡郷一〇か村の庄屋たちは、「安永年中の頃に比べると村々の人馬は半減し、潰れる家は多く、全く困窮の村方である。しかも去る巳年(天保四年)、申年(同七年)の大凶作で死ぬ者があいつぎ、潰れる家も増加した。人は少なくなり、困窮はつのる一方、荒地も多くできてしまった」と村々の窮状を訴えている。この訴えにあるように、棚倉藩領松岡郷一〇か村では、安永年中(一七七二~八〇)の戸数一二一二戸、人口五三六一人であったが、天保十三年には戸数六〇八戸、人口二五二三人となっている。田畑面積は、安永年中約七〇〇町、天保十三年約五二〇町である。安永から天保というわずか七〇年の間に、戸数は約六〇〇戸、人口は約二八〇〇人、田畑は約一八〇町が減少したのである。実に戸口は半減、田畑は総耕地面積の三割弱が荒地となっている。
このような農村の疲弊は、ひとり棚倉藩領松岡郷の村々のみではなかった。そしてこれら農村の疲弊は、年貢の苛重と天災のくりかえしによってもたらされた。
本来近世は自給自足の経済を基盤として成立していたが、その初めから武士は城下町に集住し、まったくの消費生活を送っていた。世の中の進展に伴ない商品経済は発達し、都市の消費生活は向上した。その結果は領主層の財政を圧迫することとなった。上の写真は天保四年に棚倉藩主井上河内守が、水戸藩那珂湊の豪商木内家から四三三〇両を借りた証文である。借金で穴埋めをしなければ藩財政は立ちゆかなかったのである。
藩財政たてなおしは、年貢増徴に求められた。しかし、しぼりにしぼりとられた余裕をもたない農民にとって、さらに重い年貢の取り立ては、大変な負担であった。農民は田畑山林を質に入れて借金をし、あるいは手ばなし、あげくは年季奉公をしてかろうじて年貢を納めた。
上段右の写真は質地証文で、臼場村の忠蔵が、九畝六歩の下田を年季五年の約束で質入し、同村の薗治郎から一両二分と銭二七二文を借金したものである。
上段左の写真は売渡証文である。新蔵が田畑合わせて九畝九歩を三両一分で同じ村に住む孫市に売り渡している。近世には、本百姓の転落を防ぎ、年貢を確保するために田畑の永代売買は禁止されていたが、実際にはこの写真にみるように売却が行われていた。
下段写真は山の売渡証文である。臼場村の治郎衛門は、豊田村の吉太夫に自分所有の山一か所を質入れして借金していたがその弁済ができなくなり、借金棒引とわずかな金を受け取り、売り渡している。
次頁下段写真は年季奉公手形である。彦兵衛が五年の年季、給金二両の条件で娘を菊池半兵衛家に奉公に出した約定書である。娘は小間使として働いたであろう。
同じ年季奉公手形でも次頁上段に掲げた写真はまた違った意味をもつ年季奉公手形である。越後生まれのりいという一五歳の女が、平潟の洗濯屋(遊女屋)に遊女として、八年六か月の年季を条件に二五両二分で身売りしたものである。
以上のような借金証文の類は、数多く残されている。そしてその借金の理由は、「年貢上納金ニ指詰リ」というのが大部分であった。
右のような農村の疲弊は、天災によって一層ひどくなる。年貢が重く余裕のない農民にとって、ちょっとした日照り、長雨も痛手であった。まして寛永、天明、天保の三大飢饉と呼ばれるような異常気象に直面した時、農民は為すすべもなかった。
次頁の写真は『竜寅寺過去帳』の一部である。名前の右脇に「飢死」「が死」と書かれている。この過去帳の飢死の記載は、天保七年の十一月が最初である。天保七年は雨、曇の日がつづき、夏でも綿入れを着るといった冷気で作物の実りが悪く、食糧不足による飢餓状況は同年末から翌八年にかけて深刻であった。
この『竜寅寺過去帳』は、写真にみるように天保七、八年の交に次のような記事を書き留めている。
(天保七年)五月十日より雨降り天気稀なり、六月同断、七月同断、八月ニ成候ても田畑共ニ実入不申、諸穀高直〈値〉ニ成、白米壱斗位より日に増高直に成、小豆抔少々出来初、九月畑作諸品共に不宜、尤大豆上作にて半毛、小豆抔ハ八斗位取候場ニて漸壱斗五升取上、最早此節は白米壱分ニ付八升位、十月に成七升より六升位、小豆壱斗位、大豆弐斗位、十一月に成候ては白米五升五合、小豆八升、大豆壱斗五升、麦七升位、葛わらひ粉も八升位、十二月白米五升、小豆七升、大豆九升、麦ハ米同直、大根抔ハ中ニて壱分ニ五拾本位、干菜拾八連位、諸品共ニ高直故くすわらひの根掘候ても続不申、花その村にてハ飢死する者多分有之、尤田作ハ中妻より戸神ハ宜ふ、小豆畑辺ハ壱粒も米実入不申、御地頭より百姓へ少々助有之、(天保八年)正月元日のミ二日より雑飯打続、米穀諸品高直故皆々難渋、世間大災盗賊之沙汰ニて油断不致、夜中ハ寝臥候もの無之、二月穀物直段平ニてハ四升五合壱分、諸品共ニ準之シ候
天保期は七年をはさんで前後に凶作飢饉があいつぎ、天保四年の飢饉の時には、平潟村民が米よこせの一揆をおこしている。
ところで天明の飢饉は天保の飢饉以上に深刻であった。前述のような戸口の激減に大きな影響を与えたのは、天保の飢饉よりはむしろ天明の飢饉であった。しかしいずれにしろ異常気象によっておこった飢饉を、より深刻なものにしたのは、農民に余力を残すことのない年貢苛重にあった。
年貢上納につまっての借金、やがて質地は質流れとなり、土地を失った者は村をすてて働き口を他に求める。村の人口の減少は、当然のことながら荒地の増大となる。一方土地を失なう者のいる反面、土地を集積する者も出てくる。このようにして農村内部は貧富の差が増大し、やがて地主と小作人の関係が生まれてくることとなる。