近世にあっては、物を大量に、安く輸送する上で、海運にまさるものはなかった。北東に向って小さな湾を開いた平潟港は、東廻海運の中継港として重要な位置を占めた。
東廻海運とは、日本海沿岸の港から出帆し、津軽海峡を過ぎて太平洋に出、江戸に達する海運である。寛永年間(一六二四~四四)仙台藩、南部藩が、自藩の米を江戸に運ぶため石巻以南の航路を開発したのに始まり、ついで津軽藩が石巻以北の航路を開発、明暦元年(一六五五)秋田藩が土崎港から津軽海峡を通って江戸に廻船を出すにいたって完成した。寛文十年(一六七〇)豪商河村瑞軒が幕府の命を受けてこの海運の刷新に成功、廻船の安全と所要日時の短縮がはかられ、以後東廻海運は大いに発展することとなった。
仙台藩は早くから寄港地としての平潟に注目し、寛永年間港内の大石を取り払い、築港したと伝える。さらに仙台藩は、平潟の地に仙台陣屋を置き、「常州平潟御穀役人」を常駐させた。棚倉藩もまた自領である平潟に陣屋を置き、廻船の取り締りにあたった。河村瑞軒の海運刷新の時には、平潟は寄港地に指定され、鈴木主水が浦役人に任命されている。以後平潟は商港として発展し、繁栄の地となった。
小宮山楓軒は、文政十年(一八二七)奥州への旅の途中平潟を目のあたりにし、「繁栄している土地だ。狭い所だけれど二〇〇余りの家がある。遊女屋も七軒ある。金持の商人が多く、瓦屋根の家々がまるで魚の鱗のようにつながっており、まるっきり都会のようだ。小さな港だけれども、入舟が絶えないから、このように賑っているのだろう」とその繁栄ぶりを書きとめている。
左の写真は松前産の秋味(あきあじ)(鮭、塩鮭)を積んだ船が平潟の港に入船した書上げである。松前、仙台、箱立(函館)などから三二艘が入津しているが、これは船宿鈴木屋だけの分である。この史料からも平潟の賑いぶりが知られよう。
上に掲げた写真は、平潟を描いた絵馬である。港には数隻の船が船がかりし、海に突き出すように遊女屋が建ち並ぶ。大原幽学が「まれなる景色の良い所」と評した景色そのものである。
水戸藩士で、画家として全国的に著名な立原杏所の平潟図(口絵)は、景勝の地平潟の姿を写して余りある。