廻米

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寄港地としての平潟には、松前、箱館、八戸、宮古、気仙沼、石巻、仙台、新潟、那珂湊、浦賀、江戸などの船が入港し、交易を行った。これら諸国の廻船は、定まった「船宿」に滞留した。船宿は、出船・入船を棚倉陣屋に届け、帆役銭(一種の通行税)などを取り立てて納入する役目を負っていた。と同時に船宿は、荷受問屋、廻船業をも営んでいた。幕末期の船宿として、武子市兵衛、鈴木主水、菊池半兵衛、赤津徳兵衛、根本万平、武子藤右衛門、鈴木忠三郎、気仙屋孫右衛門、加賀屋政五郎、和泉屋紋兵衛などの名がみえる。

 平潟の港で交易された商品は、移入品として、わかめ、こんぶ、鰊、かずのこ、するめ、塩鮭、塩鰹、塩鰯、干鰯、鰯粕、鰹頭粕、魚油、塩辛、さつまいも、古内茶、菜種、塩、木綿、真綿、古着、味噌、醤油、酢、酒、砂糖、たばこ、菓子、むしろ、わら、紙、鍋、釜、瀬戸物、小間物、菅笠、足袋、下駄、傘、燈油、線香、ろうそく、火打石、とうしん草、砥石、硯石、雛櫃、貝杓子、薬種、石灰、荏粕、醤油粕、菜種粕、漁網、古帆、綱、荒手縄、楫、鉄、〓(そ)、藍玉、やしやふし(染料)など、移出品は、鰹、ぶり、はまぐり、あわび、鱒、鰹節、生り節、白米、玄米、小麦、大豆、小豆、材木、杉皮、ほだ木、まき、炭など、実に種々雑多な商品が取り引きされている。これら数多くの商品の内で最も重要な商品は、米であった。

 米は、初め領主の握る商品であった。領主の手もとに集められた年貢米は、江戸、大坂へ送られ、商品化された。北茨城地方の年貢米は、いったん村の郷蔵(ごうぐら)に納められ、さらにこれを御料(ごりょう)(天領)は江戸浅草の蔵、水戸藩、棚倉藩は江戸の蔵屋敷(くらやしき)にそれぞれ廻送され、納められた。これを廻米(かいまい)といい、多く船で運ばれたので、郷蔵から港へ出すのを津出(つだし)(津下)といった。

 平潟の港は、棚倉藩、湯長谷(ゆながや)藩、泉藩、御料など、磯原港は水戸藩、旗本領の、それぞれ年貢米積み出し港として大いに利用された。右頁にあげた写真は旗本一色家の廻米証文で、一色家の郷代官をつとめる滑川が、磯原港から海老沢(東茨城郡茨城町)まで米二〇〇俵の廻送を野口に依頼したものである。


廻米取極証文

 廻米は、廻船業者が請け負い、村方からは上乗、納名主が乗り込み年貢米についての采配を振るった。右頁上の写真は、下小津田・上小津田両村と廻船業者との間に取り交された廻米の運賃、手数料などについての約定書である。そしてこれら廻米を扱う船には水とか、「御城米」と書いた赤丸の旗印が立てられた。「御城米」の旗印は、幕府の米であることを表示している。


廻米証文


御城米旗


御城米津下帳

 このように、米は年貢として、領主による商品化がすすめられたが、時代が下るにしたがって、江戸へ廻送せずに、その土地、土地で売り払う地払(じはら)いが多くなり、かつ、農民の余剰米も商品として市場に出まわるようになった。上の写真は、平潟の商人安満屋半兵衛らが買い付けた米を浦賀の商人大黒屋儀兵衛らに売り渡した仕切書である。


米・大豆送り状

 ところで廻船の遭難もしばしばであった。明和二年(一七六五)磯原港を出帆した廻船姫宮丸の安南漂流などは、当時の人々の耳目をそばだたせた。