平潟港を中心とした商品の流れが明らかにできる物に塩と鉄がある。
平潟の商人は、棚倉方面から送り出された米、板、角材を船に積み、浦賀、江戸へ向った。そして、大消費地江戸においてこれらの積荷を売り払い、戻り船には、浦賀、江戸の塩問屋から塩を買い付け平潟に下った。塩は瀬戸内の塩田地帯で生産され、塩廻船によって江戸、浦賀へもたらされたものである。平潟の廻船問屋安満屋は、文政九年(一八二六)から天保五年(一八三四)の九年間に、阿波徳島産の斎田(さいた)塩約一八万俵、一年平均約二万俵を買い入れている。
平潟に陸揚げされた塩は、牛の背にくくりつけられ、平潟街道(棚倉街道)をへて棚倉方面へ送られた。内陸部棚倉方面の醤油、味噌醸造にとっては欠くことのできないものであった。因みに平潟街道は「塩街道」とも呼ばれていた。
この同じ塩街道を、鉄もまた牛の背に揺られながら棚倉城下に運ばれた。左頁下段写真は平潟の駿河屋与兵衛が常世中野村(福島県東白川郡塙町)の豪商荒川助惣に売り渡した鉄の仕切書である。
棚倉城下の前田、川下、北野三か村は、早くから鍬鍛冶が行われ、その製品は福島県域はもちろん、遠く関東一円に売り出された。平潟から送りこまれる鉄は、これら鍬鍛冶の原料だったのである。
平潟に陸揚げされる鉄は、古くは江戸商人の手をへた備中鉄であったが、明和期(一七六四~七一)頃から南部鉄が買い付けられるようになった。その背景には、宝暦(一七五一~六三)以降の南部鉄山の隆盛があった。飛躍的に発展した南部鉄山の経営者は、その販路として棚倉城下三か村の鍬鍛冶をねらったのである。南部の鉄山師中村家の史料によれば、鉄は北上山地に点在する鉄山から、三陸海岸の宮古鍬ケ崎(岩手県宮古市)の鉄宿に集められ、ここから各地に売り出された。売りに出された総量の四〇~五〇パーセントは平潟揚になっている。平潟の鉄問屋は小松甚十郎(和泉屋)であった。小松のほかに鉄を扱った商人としては駿河屋与兵衛、鈴木忠三郎、武士市兵衛、菊池半兵衛などがいた。