江戸幕府は成立当初より江戸を中心とし交通網の整備に力をそそぎ、五街道を中心として諸施設が整った。
まず諸街道には宿場を置き、宿泊と輸送の便をはかった。宿場の宿泊施設としては大名や身分の高い者のための本陣(ほんじん)、一般旅人の旅籠(はたご)、泊るだけの木賃宿(きちんやど)があり、また輸送面では各宿場に問屋を置き、そこに一定の人足と馬が常備されていた。また幕府は慶長九年(一六〇四)街道に一里三六町(約四キロメートル)ごとに一里塚(いちりずか)を築かせた。
岩城街道は水戸街道につづき、水戸より北への磐城平、相馬(そうま)方面に至る海岸通りの街道を指し、岩城相馬街道とも呼ばれた(のち明治になって陸前浜街道と称された)。この岩城街道に沿う北茨城地方の宿場として、足洗、神岡が賑わった。
大坂の商人松屋甚四郎を講元とする浪花講(なにわこう)が発行した文久二年(一八六二)の『早引浪花講定宿図会』によれば、「水戸通り仙台岩沼迄」の講推せんの旅館として当地方では写真のように神岡で柏や伝二右衛門、平潟で細や伊兵衛の名が記されている。平潟は岩城街道より離れているが、港町として栄えた場所なので、多くの旅人がここを利用したものであろう。
磯原二ツ島の付近に旗本稲垣氏知行地と水戸藩との領地境を示す榜示杭(ぼうじぐい)が建てられている。またこの街道を横切る川として大北川、里根川がある。里根川には土橋がかかっているが大北川には橋がなく、渡し守がいて舟渡しを行っていた。
また街道には松並木(まつなみき)と一里塚があった。松並木は慶長十一年に植えられたといわれているが、夏の日陰、冬の防風雪などに役立ち、旅人の疲れをいやした。「末の松並」は、旧街道の松並木である。このような松並木は街道の両側につづき、その姿は昭和初期、一部は最近までみられた。
一里塚は街道の両側に土盛りし、その上に普通は榎木が植えられた。当地方では下桜井、磯原、神岡、関本に築かれたが、現在昔の面影をわずかに留めるのは神岡だけである。