江戸時代平潟、関南、関本、華川地区の村々は棚倉藩(のち一部は旗本領となる)領であり、とくに平潟は、東廻海運の中継港として重要な位置を占め、藩では津奉行所を置き諸国廻船の管理にあたらせた。そのため平潟より棚倉(福島県東白川郡棚倉町)に至る道路は藩にとって重要な役割を果たすもので、途中何か所もある険難な場所を随時改修に努め、通行し易い道路としていった。この道を棚倉街道(平潟街道)と呼んでいる。
この街道は平潟から山小屋村、才丸村、山小川村を通り奥州白川郡の大畑(おおはた)村(または大蕨(おおわらび)村)、北野(きたの)村(福島県東白川郡塙町)をへて棚倉に至るまでで、その道のりは約一三里三〇町(約五九・三キロメートル)である。
この街道を利用して運ばれる荷物は、まず平潟からは塩、鉄、魚など、棚倉方面から平潟へは米、木材、木炭などであった。なかでも塩の輸送が大事だったので、「塩の道」などとも呼ばれた。
これらの荷物は中継しながら運ばれるが、棚倉街道の継立地(つぎたてち)は前に述べた五つの村で、それらの村には人馬が用意されていた。天明六年(一七八六)の定めによれば、米四斗五升入二俵付一駄分の平潟より棚倉までの駄賃は五四五文であった。米の場合一駄は二俵付であるが、煙草の場合は八俵付、斎田(さいた)塩は六俵付、生魚は五俵付、塩物は六俵付で、駄賃はいずれも米の場合と同じである。
以上みてきたように、この街道は、棚倉藩の表玄関ともいえる平潟に通ずる重要な街道だったので、一里塚も築かれていたことは、常陸国の国絵図などから判明するが、当地方ではこの街道の一里塚の跡はみられない。とにかく当地方の棚倉領内では、棚倉地方との政治的な結びつきのほかに、この街道を媒介として商業や文化の面でも深いつながりをもってきたのである。