幕府異人を解放する

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異人上陸の報は江戸の幕府にも届いた。六月九日幕府の代官古山善吉、蘭学者で通辞(つうじ)(通訳)の吉雄忠次郎らほか四〇人近い一隊が大津に着いた。幕府がはるばる数日かかって奥州に近い大津まで、多くの人数を派遣したのは、この一件が単に水戸藩だけの問題ではなく、鎖国(さこく)を国策とする日本にとって、重大事件と考えられたからであろう。

 大津村を領地として支配する水戸藩以外の大名にも、海岸防備の出動命令が出されたのは、やはりそのためであった。上の図によって大津村の西隣、棚倉藩主井上河内守の領分の仁井田の海岸に、陣屋が設けられ、城下棚倉(福島県東白川郡棚倉町)から派遣された人数の旅宿が定められたこともわかる。海中に「元船」とあるのは、沖に碇泊中の異国船の母船のことである。


大津浜警備の図

 さて幕府の役人の取り調べは、水戸の役人立ち会いのもとで始まったが、オランダ語でわかり、通辞との会話が円滑にすすみ、英国捕鯨船内に敗血病患者がいるので、野菜や果実、鶏や牛肉などが欲しくて上陸したこともわかった。そして彼らが携帯した小銃は、それらと交換の積りであった、と答えたという。

 幕吏は上陸英人の言を認めて、六月十一日の朝、彼ら一二人を解放して、船具とともに元船に帰してやった。その際野菜や鶏一〇羽、酒一樽を与えたという。その時の幕吏の申し諭しによれば、わが国の禁令を犯して無断上陸したことを厳しく責めながらも、実際にとった処置は、幕府の穏便主義そのものであった。

 当時の幕府の異国船取り扱いの態度は、表面強硬なように見受けられるが、本心はことを構えるのを極力避けようとする穏便主義が根底にあったものと考えられる。