異人上陸一件は二週間程度で円満に解決した。政治の圏外に置かれていた庶民には、それほどの不安感もなかったろうが、幕府に与えた衝撃は大きかった。とくに地元水戸藩にとっては、藩始まって以来の大事件であった。
庶民出の学者で士籍に列し、当時水戸藩の彰考館総裁の重職にあった藤田幽谷は、異人上陸の報を知って、捕鯨のためなどというのは、単にうわべだけであるとし、異国船がわが国を侵略する危険性を強調した。
筆談役の会沢は幽谷の高弟であり、会沢が異国船が下げ縄などをもって、日本近海を測量したなどとして、その侵略性を信じているのは、日頃幽谷の教を受けていたからであろう。
また幽谷の子東湖は、当時一八歳であったが、父幽谷の命令で、大津浜に赴むき、無礼な異人を討って、自ら裁決を受けよといわれ、悲愴な覚悟で水戸を出発しようとして、別れの酒宴中、異人が解放されたという知らせを受け、大津行を中止したという。東湖は後日『回天詩史』の中で、その生涯の内、三たび死を決した経験をうたっているが、この決死の大津行の計画は、その第一回であったと述懐している。
幽谷は大津浜一件の詳細を知った時、
常陸なる大津の浜にいぎりすの船をつなぐと君はきかずや
とうたっているが、このような幽谷の対外的危機意識が攘夷思想を生み、それが会沢や東湖らによって尊王攘夷論(そんのうじょういろん)にまで発展させられたことについては、大津浜一件がその背景にあったことは推察するに難くない。
幕府が諸大名に異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)(攘夷令)を出して、一時異国船に対する態度を硬化させたのは、文政八年(一八二五)二月のことで、異人上陸から一年もたっていない。この令は明らかに大津一件が影響を与えたものと判断される。