近世の北茨城地方の神々の信仰では、花園権現がとくに知られている。これは、同社の奥の院とされる七つの滝の水が、花園川の源として、沿岸の村々の耕地を潤していたからであろう。
花園権現では古くから磯出の祭りが行われていた。これはお山(神社)を出発した神輿が多くの人々に供奉(ぐぶ)されて磯原村の海岸にある亀升磯へ神幸し、そこで潮汲み役が海水を汲んで神に捧げるという儀式で、七年に一度行われる大きな行事であった。
当時、花園山の祭礼は二月十五日と四月八日の二回であった。これは金砂(かなさ)、真弓(まゆみ)、竪破(たつわれ)の諸山も同様であったが、みな祭神が釈尊を本地としていたからであろう。二月十五日は釈迦涅槃(ねはん)つまり入滅の日であり、四月八日は釈迦誕生の日として信じられている花祭りの日に相当する。
四月は冬の畑作が終了して、いよいよ春の耕作に入ろうという時期で、山の神を人里に迎えて田の神として祀るという季節であり、里人としては、この時期に祭りをし、これから仕事に精励しようというひとつの節にもなっていたのである。農民から広く崇拝されていたのは、実はこうした背景があったからであろうと考えられる。
また、奥の院の滝壺が竜宮に通じており、神体が鮑だというところから、漁業関係者からもあつく信仰されていた。
花園権現の信仰は本市地域だけでなく、現在のいわき市や日立市、久慈郡方面にもおよんでいた。
なお、別当の金剛王院満願寺は上野寛永寺直末であるところから、日光輪王寺や、寛永寺の祭事、斎事にも深く関係していた。