磯原村の大北川口の山上に祀られた天妃神は元来「媽祖」といって宋の時代、中国の福建省の一地方に出現した女性の神で、元の時代全国的な航海の神としてひろまりをみせて天妃后母の称号を贈られ、明・清の時代には海難救助の神として大変崇敬されていた。
この神を日本にもたらしたのは明僧東皐心越(とうこうしんえつ)で、水戸第二代藩主徳川光圀は、元禄三年(一六九〇)七月、海上守護の神として磯原に祀らせ、同村および大津両村の漁業者の鎮守として崇めさせたのがこの神社の始まりである。
天保二年(一八三一)、第九代藩主斉昭の時、日本の神でなければというので、従来「天妃神」として祀っていたのを「弟橘媛命」に改めたが、地元では一向に切り変えず、今までのように「天妃神」とか「天妃山」とかいう名称を用いていた。
この神は、本来異朝の神であるが、海上安全守護の神というので、地元の漁民、海運業従事者などから深い信仰を寄せられ、藩側の社寺改革などもなかなか思うようにはいかなかったといわれている。
この天妃山には、天妃の祭祀以前薬師堂があり、薬師如来が祀られていたといい、二十三日の夜これを拝したという。天妃神の誕生日は三月二十三日で、これが祭日になっている点、共通している点があり、天妃神を祀るのにはまことに都合がよかったわけである。
なおこの山の東の峰は「旗の峰」といい、灯台の役目をしていた。