寺子屋と塾

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近代日本の小学校教育は、明治五年(一八七二)の学制公布後、短かい年月の間に、全国各地に普及した。これは前時代から蓄積されていた庶民の教育力に負うところが大きかったものと考えられる。それは明治維新前の江戸時代、庶民教育の場であった寺子屋や家塾によって養われた、目にみえない力であった。

 寺子屋は農村の子弟に読み書きの初歩的な教育を授ける場所であり、多くは神官、修験や僧侶、医者、庄屋(名主)などの村の有識者が師匠となって、寺や自分の居宅を利用して教えたもので、すべて私設であり、庶民の間に教育に対する関心が高まったことを示している。とくに天保から幕末にかけて全国的に、その数も多くなった。

 家塾は寺子屋よりやや専門的な教科を教える場とされるが、塾と寺子屋の区別がそうはっきりしないのが地方の実情であった。当地方にも塾も寺子屋も早くから発達をみたものと思われるが、記録の残っているものは少ない。しかし一八世紀後半に活躍した松岡七賢人(七友)といわれる常北出身の七人の学者の内、木皿村の豪農柴田平蔵(東江)、石岡村の修験大塚祐謙(孤山)と医者の大塚玄説(青嶂)の三人などは、それぞれ塾を開いて漢学などを教えていたのではないかと推察される。また後述する志賀家に残る「塾中取締書」なども、当地方の塾教育の一端を思わせるものであり、文化から文政にかけて、上桜井村の山形家に流寓中であった薩摩の浪人で漢学に秀でていた日下部連(くさかべむらじ)(号は訥斎(とつさい) 幕末の尊攘志士伊三治の父)も、塾を開いて近隣の人々に教えていたという。

 また朝日家(磯原)、鈴木家(日棚)、神永家(八反)、小室家(大塚)、滑川家(中妻)などのほか、寺子屋を開いていた家は、かなり多かったものと思われるが、古い寺子屋の建物で残っているのは日棚の毛利家で、『松岡地理志』にある修験覚乗院のあとである。


寺子屋が開かれていた毛利家