志賀家に残る「塾中取締書」は、庶民教育の実際の姿を示す数少ない史料のひとつである。志賀家は奥州棚倉藩の領地であった仁井田村の旧家で、元禄十五年(一七〇二)没した親信以来、代々医業を継ぎ、地方民の医療にあたってきた家柄である。当家には多くの医書や医療器具などのほかに、漢籍や往来物などがかなり残っている。これは志賀家が庶民教育の場となっていた頃の、往来物教科書であり、漢籍教科書であったと考えられる。往来物というのは庶民用の初級の教科書で、往来する書簡を手本としたことから始まった形式で、『庭訓往来』などのほか、『農業往来』、『商売往来』など、さまざまな内容のものが普及し、当地方の旧家にはいろいろの往来物が残っていて、寺子屋教育が盛んであったことを思わせる。また中国の史書、儒学書などの漢籍も多く残っているのは、塾や寺子屋などで、教科書として用いられた証拠であろう。
なお上掲七か条の取締書を意訳すると次のようになる。
一、わずかの暇を惜んで手習いをすること。
一、長く欠席しないこと。
一、毎朝の読書を怠らないこと。
一、古参の塾生の指図に従うこと。
一、塾中で口論などしないこと。
一、筆子(塾や寺子屋の学童)の仲間で、物の売り買いはしないこと。
一、塾への途中でけんかをしてはいけない。塾が終ったなら速かに家に帰り、昼食に帰ったならすぐ塾に戻ること。
地方の塾での学童の日常が目に浮かぶような内容である。
また塾や寺子屋の間には、手習の神として天神様、すなわち菅原道真に対する信仰が強かった。
とくに道真の忌日である二月二十五日には、天神講といって、寺子たちが日頃教を受ける部屋に、天神の掛軸を飾って、思い思いの物を供え、手習の上達を祈る風習があった。
この天神講は明治以後、寺子屋がなくなった後でも、旧寺子屋の家に受けつがれ、戦前まで行われたところもあったようである。
また寺子屋では簡単な木机が用いられたが、それを天神机などと呼ぶのは、天神信仰の現われとみられる。