北茨城地方は、農村としては比較的早く文化のすすんでいた土地であったようである。享保六年(一七二一)には大塚村の西明寺の僧海常が『山寺閑吟集』なる漢詩集をつくっており、佐川三順はこれに和して『和閑吟』と題して漢詩数十篇を詠んでいる。鈴木松江、柴田東江、大塚孤山、大塚青嶂などの七友社中や、仁井田村の志賀東庵、神岡村の菊池洞江などもよく漢詩を詠じて交流をはかっていた。
江戸時代もなかばすぎの頃になると、蕉風の俳諧は大きなひろまりをみせ、北茨城の地域にもその影響がおよんできた。花園神社の安永三年(一七七四)奉納の句額は雪中庵蓼太、吾山を撰者としているが、作者は、初音、かね、とえ、とせ、民子、柳水、安口、案山子など当地方人が多い。女性の名がみえるのも興味深い。
鈴木松江も江戸の溝口素丸とは相知る仲で門人の中には舟生曲江のように紹介されて素丸に師事した者もいた。その一人ではないかと思われる人物に福田村の一眺舎素英がいた。姓は酒井氏、名は惟貞、通称を平右衛門といい、茶道の嗜みもあった人物である。遅月上人とも親交があり、遅月の奥羽旅行の際には彼の家にも泊り、同行もしている。俳諧集『ふきよせ』は彼の編になるものである。
同じ頃平潟村に敬五亭随和と小野洞月がいた。随和とは原南陽門下の医師大友有尚のことで、現在平潟黒浦にある芭蕉の句碑は随和が建立したものである。小野洞月は遅月上人の門人で素英や随和、遠くは一茶や成美とも交わりがあった。彼の墓域には遅月上人の分骨塚がある。
幕末時代になると俳諧は一層盛んとなり豊田村の加藤梅枝、小峰伯玉、古茂田蒼水など何人もの地方俳人が出現した。