医学方面のことが記録にあらわれるようになるのは、北茨城地方の場合およそ貞享・元禄(一六八四~一七〇三)の頃からである。この分野での活動では、仁井田の志賀家が東庵親信(元禄十五年没)以来、代々名医として知られている。松岡七賢の一人鈴木松江(玄淳)も青年時代大塚村で医業を行っていたことがあるし、盟友の大塚青嶂(玄説)も石岡村で医を開業していた。長久保赤水門下の大友竜城(有慶)も江戸の原通玄のもとで医を学び、のちに神岡上村で仁術を施していた。
水戸藩の名医原南陽の門人帳には山形玄之[上桜井村/安永五年入門]・志賀玄伯[仁井田村/安永九年入門]・丹玄逸[神岡村/天明五年入門]・大越宗精[松井村/天明五年入門]・大友有尚[平潟村/天明八年入門]・大友玄通[平潟村/寛政六年入門]・緑川玄水[関本下村/寛政十年入門]・鈴木玄徳[磯原村/寛政十二年入門]・志賀玄郁[仁井田村/寛政十二年入門]・福地玄郊[仁井田志賀氏次子/文化元年入門]・大友有信[神岡村/文化元年入門]・鈴木玄徳[大津村/文化五年入門]・野口玄徳[磯原村/文化五年入門]など北茨城市内地域の諸村出身の人々の名がみえている。これらの人々は、当時、現に医を業とする者、および医に志す者であったが、比較的この数が多いのは、向学の精神に燃えていたためと業務に熱心であったためと思われる。
その頃、他郷に出て医術を以て世に貢献していた人物もいた。磯原村出身の緑川隆琢もその一人で、彼は塙(福島県東白川郡塙町)付近で活躍していたことが伝えられている。
中には当時名声の高かった華岡青洲を紀州に訪れて師事した野口玄朱・鈴木玄茂のような熱心な人物もいた。
近世後期になると仁井田の志賀家などではいちはやく解体新書などの新情報を入手してそれを医療の実際面に活かす努力を惜しまなかった。また、幕末には神岡村出身の佐藤竹斎のように蘭学に志す者も出現するなど、医学の面では当時として極めて進歩的な傾向がみられる。