北茨城地方において石炭の存在がいつ頃から知られるようになったか不明であるが、宝暦十三年(一七六三)に著わされた『松岡郡鑑』や文化七年(一八一〇)に成った『松岡地理志』の秋山村(高萩市)の項などに燃える石のことが書かれているので、この頃には当地方でもすでに知られていたのではないかと思われる。記録によれば当時石炭のことをぶんどう岩・くんどう岩・狐石・黒炭石などと呼び、燃えるけれど黒い煙とともに悪臭が出るので野犬や狐退治に使用されていたとある。
この石炭を商品として閧発したのは上小津田村の神永喜八である。
喜八は文政七年(一八二四)神永喜衛門の長男として生まれ、農業のかたわら醤油醸造や材木商を営んでいた。
喜八は二八歳の時、材木取り引きのため江戸深川に出かけたが、その時上方の人より石炭の効用について教えられた。そこで喜八は近くに産出する燃える石を商品化しようと考えたのである。
石炭の発見を聞いた江戸深川の商人長谷川与惣次は代理人を喜八宅に遣し、「下総国行徳浜の塩焚場に用いたいので、石炭三百俵を磯原河岸まで採取のうえ積出してほしい」と申し出た。この申し出を受けて喜八は上小津田村字塩ノ平、さらに小豆畑村字芳ノ目などにおいて採炭を始め、そこから石炭三〇〇俵を掘り出し磯原河岸まで馬で運び、船で江戸へ送った。時に嘉永四年(一八五一)のことである。
塩焚き用燃料として最初に使用された当地方の石炭、これが常磐地域から石炭を商品として売り出した最初のものであった。