野口正安と西丸帯刀

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野口正安は、天保四年(一八三三)磯原村に野口玄珠の子として生まれた。通称は哲太郎、東溟と号した。水戸藩の郷士として知られた野口家の一族の出である。藤田東湖に学び、早くより尊攘運動に身を投じ、安政五年(一八五八)八月水戸藩に下された密勅(天皇が日米修好通商条約締結を不満として水戸藩などに下した勅諚)の処置をめぐる問題では、幕府の命に従わず、水戸郊外の長岡に屯集して多くの同志と密勅の返納に反対し、尊攘激派と称されるようになった。屯集解散後同志の一部は江戸に潜行し、万延元年(一八六〇)桜田門外に井伊直弼を要撃するが、正安らは、攘夷の実行を目指し、玉造村(行方郡玉造町)辺へ集合して気勢をあげた。世に「玉造勢」と称された。しかし正安ら玉造勢は、穏健派中心の藩庁に彼ら一同の意志を尊重していくと説得され、文久元年(一八六一)二月、水戸表へ自訴という形で出頭した。しかし約束とことなり、彼らのうち主だったものは、水戸城東細谷の新獄へつながれた。獄中の待遇はひどく、一同は絶食して抗議したので、七人の獄死者を出した。やがて時が移り、水戸藩庁を彼らの理解者がにぎると正安は他の一人とともに病のため出獄を許されたが、まもなく没した。

 正安らの獄中での唯一の慰みは、胸中にひめた攘夷への想いを詩歌に残すことであった。衣服の顔料などを用い、不自由な筆写用具で書き残された多くの詩歌は、現在野口家と、水戸の同志岡崎維彰の子孫の家に『鶯谷集(おうこくしゅう)』という名で保存されている。彼らが遺した詩歌のひとつひとつには、燃えるような彼らの心情が吐露されている。


野口正安自筆の『鴬谷集』

 西丸帯刀は、幼名義勝、名は亮、字は子方、松陰と号した。文政五年(一八二二)磯原村の野口家に、野口北溟の次男として生まれ、弘化四年(一八四七)同じ水戸藩の郷士の大津村西丸家の養子となった。生家、養家ともに、水戸藩の旧族郷士で、多くの人材を出している。

 帯刀は幼少より尊攘運動を志したが、他の同志とはことなり、広い視野に立って水戸藩をみることができた人物であり、その活躍も広く藩外におよんだ。とくに万延元年八月、水戸藩が桜田事件後の混乱にゆれ動いている時、水戸藩尊攘派の代表として、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らと、江戸湾停泊中の長州藩の軍船丙辰丸(へいしんまる)上で「成破の盟約」を結んだことはよく知られている。新日本の建設にあたり、「破」を水戸藩が、「成」を長州藩が受けもつことを約束したのは、帯刀の決断によるものであった。

 しかし、徳川斉昭の死去や、幕末期の混乱、長州藩の藩論変更などで、この盟約はついに陽の目をみることがなかった。だが帯刀は、その後水戸藩尊攘派が関係しておこした東禅寺(とうぜんじ)事件や、坂下門外の変には、その背後にあって活躍した。

 その後帯刀は、元治元年(一八六四)の天狗党の筑波挙兵、天狗・諸生の内乱には巻き込まれず、郷里大津へまいもどり、長松(ちょうしょう)寺に屯集して、無頼と称された田中愿蔵隊から郷土を守る指導的役割についた。しかし抗争の深刻化により、自家の屋根裏に身を潜め、明治まで世を送ったという。

 王政復古後は正式に水戸藩へ出仕し、北海道開拓方として務めた。明治四年(一八七一)廃藩置県で水戸藩がなくなると、二度と公務につくことなく、大正二年(一九一三)没するまで、長い隠遁生活を送った。明治四十年(一九〇七)従五位を贈られた。


桂小五郎の西丸帯刀宛書状


西丸帯刀自筆「丙辰丸の盟約」表紙


西丸帯刀の肖像


水戸藩の西丸帯刀宛北地開拓の辞令


西丸帯刀に対する位記