水戸藩の党争、内紛は、元治元年(一八六四)三月、天狗党の筑波挙兵をもって頂点に達した。天狗党に対し、保守門閥派を主体とした諸生党は、幕府に協力して、天狗党の乱鎮圧にあたった。幕府は近在の諸藩に出兵を命じて天狗討伐を始めた。北茨城地方の人々も、そのような追討令の下、それぞれの領主の命によって行動せざるを得なかった。
そうした動きの一方では、水戸領の村々から、天狗党に参加する者も各地にあらわれた。当地方でも、天狗党に加担する人々と、幕命にそって天狗追討に参加する人々との抗争があった。
当地方におけるこれら抗争の発端は、天狗党の立場にあったが、筑波挙兵には参加せず、故郷の大津に帰っていた西丸帯刀や、その同志沼田準二郎らが、天狗党の別動隊ともいうべき田中愿蔵一派の、当地方襲来に対抗すべく、村々の有志によって結成された自衛団に参加したことにあった。
大津の高台にある天台宗の古刹長松寺に、大津の郷士や西丸らの協力で、七月には「武場」が開設され、近在の村々の有志が武力鍛錬のために屯集していた。参加者は全てが尊攘派ということでもなかったが、彼らの日々の軍事調練は、やがて幕府の疑惑を招くようになった。結局田中愿蔵一派の襲来はなかったが、武場屯集の勢力が、水戸藩の天狗党と同調することを恐れた幕府の命令で、ついに中山家が出兵し、長松寺屯集の一隊は解散させられた。
その後中山家の勢力とこれに加担をした人々は、次つぎに天狗と目された人々の家を打ち壊したので、当地方の混乱はさらに増大した。騒動に直接関係した人はもちろん、事件を目撃した人にとっても、これらは忘れられないものだったに相違なく、後世に尾を引く大問題であった。