慶応三年(一八六七)十二月、王政復古の大号令によって徳川幕府は瓦解したが、あくまで新政府に反抗する勢力もあって、内乱の炎は、明治二年(一八六九)北海道の五稜郭による旧幕軍が、新政府の軍門に降るまで、全国にうずをまいた。
新政権の成立とともに、水戸藩や川越藩(慶応二年棚倉藩主松平康英の川越移封にともない、当地方は川越藩領となった)、それに水戸藩附家老の中山家など、この地方の村々の領主は、いち早く新政府に忠誠を誓った。だが北隣のいわき地方の諸藩は、反政府のために結成された奥羽列藩同盟に加わった。勿来の関は文字どおり二大勢力の接点となった。
明治元年一月の鳥羽伏見の戦いでの旧幕軍敗走につづいて、五月に上野で彰義隊が破れると、旧幕府の勢力のより所は、奥羽地方へと移っていった。五月二十八日彰義隊の残党に守られた輪王寺宮能久親王(のち北白川宮能久親王)が、旧幕府の軍艦に搭乗して平潟へ上陸し、鈴木主水屋敷に休息ののち、会津を目指して去ったが、この突然の事態に、当地方の人々は時局の重大さを知らされ、急にあわただしい動きをみせるようになった。
六月になると、海路、陸路をへて新政府軍の薩摩、備前、柳河(福岡県)、大村(長崎県)、佐土原(さどわら)(宮崎県)の五藩兵が平潟へ集結し、ここに平潟口総督府が置かれるに至った。これは十一月、総督が凱陣するまでつづき、当地方は奥羽征討のひとつの拠点となった。
その後の平潟には、笠間藩など多くの藩が陣をはった。そのため、旧幕府勢による軍艦からの砲撃を受けたこともあり、最前線のあわただしさに人々は緊張した。やがて戦火が北上すると、ここには病院などの施設が残るだけとなって、戦争の危険は一応去った。平潟の海徳寺には、その頃病死した政府軍兵士の墓所がある。
一方新政府軍からの求めに応じ、当地方の人々は人馬の調達に奔走したり、石炭を供出したりしたが、やがて中には会津方面へ出動する水戸藩の諸生追討軍に参加する人々もあった。