慶応四年(一八六八)九月八日、年号が明治と改元された。すでに新政府は成立し、その力はしだいに強められていたが、それでもまだ支配機構は旧によっており、北茨城地方の村々は、三つのそれぞれ別別の統治者をいただいていた。松岡藩と川越藩と若森県とである。
松岡藩は、この年の正月二十四日、水戸藩附家老の中山家が水戸藩からの独立を朝廷より認められたもので、藩庁は下手綱(高萩市)にあった。当市域の南部つまり現在の中郷町、磯原町と大津町はその領地であった。
川越藩は、武州川越(埼玉県川越市)に藩庁があった松井松平家の支配地。若森県は、常陸国内の旧幕府領や旗本領を新政府が没収したもので、県庁が筑波郡若森村(筑波郡大穂町)に置かれたのでこの名がある。川越藩領と若森県の支配地は市域の北部、西部にあってかなり入り組んでいた。若森県の支配地は、神岡上、福田、臼場、車、中妻、下相田、上小津田、小豆畑、花園の各村にあった。しかし神岡上村以外の各村は、それぞれ約三分の一は川越藩領であった。このほか川越藩領は、当市域の残された各村を含んでいた。
すでにみたとおり、当地方の村々も幕末維新の動乱を体験し、平潟など戦火の洗礼を受けたところもあった。この年のなかば、旧幕軍が東北に走り、それを追って新政府軍も北上した。新政府軍の力強い軍靴の響きは、戦乱と行軍を目のあたりにした当地方の人々の脳裡に〝時代は変る〟の印象を刻まずにはおかなかったはずである。旧幕軍を完全に打ち破り強大な権力を掌握した新政府は、その組織をたえず強化しながら、旧支配機構を次つぎに変革していった。明治二年(一八六九)一月の版籍奉還は、版(領地)と籍(人民)を朝廷にかえし、藩主を改めて藩知事に任じたもので、これは制度上藩主が新政府の地方長官となったことを意味した。
しかし、当地方にもみられたように、藩の存在、その領地の分散と入り組み状況は、依然として封建制を特徴付けており、新政府が目指した統一的中央集権にとって障害であった。明治四年七月に断行された廃藩置県は、この封建支配の基礎を解体するものであった。この時当市域は若森県、川越県、松岡県となったが、ついで同年十一月大規模な県の統廃合があって、当市域を含んでいた多賀郡は久慈、那珂、茨城、真壁の各郡とともに茨城県を形成した。県庁は水戸に置かれたが、広い区域を一手に管轄するのが困難であったため、翌年二月から明治六年二月までの一年間、真壁郡町屋村(真壁郡真壁町)と磯原村に支庁が置かれた。磯原村の支庁は多賀郡を管轄した。
明治政府が廃藩置県を断行し、名実ともに中央集権を確立したということは、ここに諸改革を全国のすみずみにまで施しうる権力をもち、その基盤をととのえたことを意味する。
こののち強力にすすめられる諸改革がもつ意味あいは、階層の違いや価値観の相違によってことなるであろうが、一般民衆にとって幸であったかどうかはむずかしい問題である。だが、限られた民力で万国に対峙(たいじ)しうるより強い国家を創り出そうとするかぎり、民衆の負担が増えるであろうことはたしかであった。