戸口の把握は、新政府にとって最も基礎的かつ必要不可欠な仕事であった。廃藩置県直前の明治四年(一八七一)四月、すでに戸籍法が公布され、ある地域では同年末から施行されたが、翌年から全国いっせいに施行され、明治六年春頃までにほぼ編成を完了した。明治五年の干支が壬申であったことから、これを壬申戸籍と呼ぶ。
これまでの戸籍である五人組帳や宗門人別改帳が、武士、百姓、町人など封建的な身分別に作られていたのに対し、この壬申戸籍は、華族も士族も平民もすべて「臣民一般」とし、居住地によって編成された。
この戸籍編成のための区画割として、大区小区が設けられた。明治五年、茨城県では、管内を二一の大区に分け、さらにそのひとつの大区をいくつかの小区に分け、総計一三〇の小区を設けたのである。当市域三五の村々は、すべて一七大区に属し、第四小区から第一〇小区にいたる七つの小区を占めていた。そして小区には戸長一人、副戸長二人が配置され彼らが戸籍の編成にあたったのである。戸長、副戸長は県が任命した官吏であったが、たいていこれまで村の運営にあたってきた庄屋・名主といった村役人であり、大区小区もしだいに県の行政区画の色あいを濃くしていった。