戸籍編成のほぼなった明治六年(一八七三)二月、戸籍吏の戸長、副戸長のほか、庄屋、名主、組頭、山守など旧来の村役人をすべて廃止し、新たに小区に区長一人、各村に戸長、副戸長各一人が置かれた。これらを三長と称し、彼らの果たすべき任務は「三長所務綱目」に明確に示された。三長にはほとんど旧来の村役人が任ぜられたが、それは単に名称の変更のみを意味しただけではない。これまでの村役人は、共同体の理事者=代表者であったが、三長は政府行政の最末端の担当者として位置付けられ、身分も官吏に準ずるものとされた。
これが大区小区制といわれるもので、ここに政府の命令、伝達が県を通じ村々のすみずみにまでいきとどく統治機構ができあがった。明治の三大改革といわれる徴兵令、学制、地租改正はこの機構によってすすめられるのであり、それだけに区戸長の肩には、国家的課題が重くのしかかっていたのである。
区戸長の新設とだき合わせに、民意をくみあげる機関として集議所(しゅうぎしょ)が県下七か所に設けられた。当市域は、第一四、一六、一七大区すなわち多賀郡の全部と久慈郡の一部地域の代表者によって構成される第五会所に属した。議事所は友部村(多賀郡十王町)に置かれ、第一回の会議は同村の法鷲院で開かれた。当市域からは、足洗村の篠原太沖と木皿村の柴田稲作が会員にあげられている。この時篠原は、惰農を責め勤農を賞する制を設けて農業生産力を増進させる方法を提議し、柴田は、大津村の河川改修によって耕作地を造成しその収益金から学校建設の基金を捻出する議案を提出している。彼らは集議所に積極的にかかわっていこうとの姿勢を示していた。
明治八年五月新治県が廃止されて、茨城県域は大幅に拡大されたが、これに伴って九月には大区小区も改正され、一二大区一三三小区となった。小区内の官員も改正され、小区には副区長一人と戸長、副戸長数人となった。戸長は八〇〇戸に一員、副戸長は二〇〇戸に一員の割であった。一小区内に含まれる町村数は増え、一戸長の管する区域はずっと拡大されたわけである。そして、もよりの町村に小区扱所が設けられた。この時、当市域の村々は第三大区に属し、南部八か村は第三小区(扱所下手綱村 副区長城戸保)、中部一三か村は第四小区(扱所中妻村 副区長滑川敬三)、北部一四か村は第五小区(扱所平潟村 副区長中根尚保)となった。
小区内の運営にかかる費用は、民費(みんぴ)と呼ばれ「民費聚散条例」によって管理された。民費の支出は、区内の人々の生活に役立つものはわずかで、徴兵費、学校教育費、地租改正費など新政府がすすめる諸改革のためのものがほとんどであった。