明治政府が中央集権をなしとげ、一般人民に新しく課した負担に兵役がある。明治五年(一八七二)十一月二十八日「全国募兵ノ詔」と太政官の「諭告」が出され、翌年一月十日徴兵令が布告された。これにより、満二〇歳の男子は常備役として三年間、後備役として四年間、計七年間の兵役に服することを義務付けられ、このほか一七歳から四〇歳までの男子は、国民軍と称する兵籍に登録されたのである。
この徴兵令には、免役規定があり、官吏、公立学校生徒、代人料二七〇円を納めた者、戸主、嗣子、廃疾者などは兵役を免除された。前三者は、一部の限られた人々にのみ該当するいわば特権的免役条項で、一般の人々はいやな兵役を逃がれるためにあれこれ苦慮したのである。なかには自ら肢体を損傷させて免役を願い出るという悲劇を演じた者もいたが、養子にいって嗣子となるとか、年齢などをごまかす戸籍改ざんなどの方法がよくもちいられた。さきにみた戸籍の編成と大区小区制は、徴兵令施行の基礎をなすものであったが、戸籍事務を担当する戸長は、村民とのつながりが密接であったから、村民からの申し出にはわりと簡単に応じたのである。しかし免役を目的とするこれらの手段に対する取り締りは次第に厳しくなっていった。上に掲げた徴兵免役願は、徴兵検査を受けたのち宗家の相続人となったので免役されたい、と願い出たのであるが、「難聞届」と却下されている。
徴兵による軍隊が最初に経験した大きな戦争は、明治十年の西南戦争である。この戦争は、不平士族の大反乱よりおこった。士族は、廃藩置県による士族解体以来ずっと冷遇されてきた。徴兵令は、とりわけ士族の存在理由を完全に否定したものであった。この戦争は士族にとっても徴兵兵士にとっても皮肉であったのである。
北茨城地方からの出征兵士も多く、一〇名の戦没者を出している。大塚村の豊田永作は、凱旋した同郷の兵士から息子の戦死を知らされるが、役所からは何の連絡もなく、生死の確認を役所に伺い出ている。息子栄吉が負傷し、大繃帯所つまり野戦病院で亡くなったのは明治十年八月二十一日、父親の伺いが翌年二月二十日、死後六か月をへても公けの通知がなされていない。徴兵や出兵については厳しいが、犠牲者に対してはきわめて冷淡であった。横川村(高萩市 当時四小区で中妻村にあった扱所の管轄下)の鈴木彦惣が提出した弟辰次郎の生死伺書に対しては、県でも生死は不明であると回答され、私信があったら報告せよとの但書がつけられている。まるで敵前逃亡でも行ったような扱いである。戦争による事務の混乱や通信制度の未発達もあろうが、政府の人民に対する姿勢の一端がうかがい知れる。