明治政府の財政は、当初年貢米を中心とする旧税法によってまかなわれていた。それは地域による較差、現物納を特色としており、統一的国家体制と矛盾し、その発展をはばむものであったので、早くから税制の根本的改革の必要なことが指摘されていた。明治四年(一八七一)田畑作付の制限を撤廃し、同五年地所売買の自由を認め、売買の際地券を交付するなどの措置は、税制改革のつゆはらいをなすものであった。こうした封建の禁制を廃していく一方で、いかなる税制を敷くべきかの検討が大蔵省租税寮を中心にかさねられていた。
明治六年七月、明治国家の税制の基本方針を明らかにした地租改正条例が公布された。改革の要点は、地租を金納とし地価の一〇〇分の三とする、地券によって土地の所有者を確認し地租は所有者が負担する、作物の豊凶などによる増減はしないというものである。
方針が明確になったとはいえ、もちろん一片の法令で簡単に改正できる性格のものではない。改租事業は以後非常な困難をきわめ、茨城県では、明治十三年までかかってようやく完了するのである。明治の諸改革の中でこの改革がいかに多くの労力を要したかは、県から出された関係法令の数量からも察せられる。それは他の改革法令をはるかにひきはなしており、村々では法令に対する疑義が百出し、その伺書の類がまた厖大なのである。地押帳(じおしちょう)、地引絵図、地価取調帳、地価一筆限帳といった簿冊の量は、明治前半期、村々で作成された全書類のゆうに半分はこえよう。
改租事業の中で最も困難をきわめたのは地価の算定である。地価の申告方式、地位等級方式、模範村方式などこれに関する法令は非常に多く複雑をきわめ、それを理解するだけでも大きな困難を伴った。なぜ複雑にして理解困難となったのか、その理由は簡単である。改正地租額が改正以前の貢租額を最低限維持(できれば増やしたい)することが当初からの目標であり、それをあからさまには表明せず、農民の抵抗を未然に防ぎつつ、いかに巧妙にやりぬくかに、あらんかぎりの知恵をしぼったからである。
これに対する農民の対応は、きわめて非協力的であった。このため何度も改正の旨趣を説諭しなければならなかった。また「請書」といって、期限まで(当初明治九年とされた)に事業を完了させるという約束をなかば強制的にとりつけたりした。
改租事業の強引な遂行と、農民の窮乏とのはざまにあって、戸長の苦悩は非常なものであった。煩悶と劇務のあまり、辞職を申し出る戸長も少なくなかった。この事業は大区小区制下の戸長、副戸長だけでは処理にあまり、地租改正総代や地主総代などが設けられ、彼らが事業の進行に大きな役割を果たしたのである。この困難な大事業は、こうした人たちの献身的な努力によって成しとげられたのであるが、なかにはその地位を利用して自己の土地集積をはかった者もいたのである。
改租のための費用は民費でまかなわれ、この負担にも村民は苦しんだ。明治九年真壁郡、ついで那珂郡に大一揆がおこっているが、改革に対する憤懣は、当地方の村々の間にもくすぶっていたはずである。農民の強力な反抗にあって、翌年政府は地租を地価の一〇〇分の二・五に引き下げたのである。
改租後、村民が早速遭遇した問題に入会秣場(いりあいまぐさば)の一件がある。これまで共同で使用してきても所有がはっきりしないものは官有地となり、勝手な秣採取が禁じられた。旧慣を申し立ててもなかなか許可にならず、めんどうな手つづきを要し、許可になってもさまざまな制限が加えられた。