明治十一年(一八七八)末から翌年にかけて地方行政制度の大幅な手直しがあった。地方三新法と呼ばれる府県会規則、地方税規則、郡区町村編制法の施行である。前二者は県レベルの改正で、これにより地方税でまかなう施策事業を審議する県会が開設された。
郡区町村編制法は、大区小区制にかわる新しい町村統治の機構を示したものである。前制度が、県のつくった鋳型に村を無理やりにもおしこもうとの意図をもっていたのに対し、新制度はできるだけ村の旧慣と自主性を尊重しようとしていた。この法にもとづき、当市域では、三~六か村でひとつの連合村をつくり(平潟村と大津村は一村独立)、一〇この行政区域が生まれた。連合村の代表者である戸長は住民の公選により選出され、戸長の居宅が役場にあてられた。連合村は戸長役場のある村を冠して、たとえば「中妻村外五か村連合」という具合に呼ばれた。
また町村かぎりの事業、経費を議するため町村会の開設がはかられた。とはいえ、戸長役場の通達綴に、町村会の開設を督促した通達がいくつもみえるから、すぐにはなじまなかったようである。当市域全部の開設状況は明らかでないが、明治十二年の小豆畑村ほか五か村の議事細則などがみえており、しだいに普及していったとみられる。
このように町村段階でかなりの自治を容認する一方で、郡役所を新たに設け、郡長に町村を監督する強い権限をもたせた。多賀郡の郡役所は高萩村に置かれた。初代郡長は中村長幹である。
この時期は、自由民権運動が隆盛し、自由が貴ばれ、近代史の中で最も活気に満ち満ちた時期であった。民権家の戸長も輩出したし、町村会などはしばしば民権活動の舞台ともなった。しかし民衆の力があまりに強大になっていくことを恐れた政府は、運動に対する弾圧をしだいに強めていった。町村の統治機構にも手が加えられたことはいうまでもない。明治十七年六月、戸長は再び官選となり、官吏としての戸長の権限が強化され、その管轄区域も改正拡大された。戸長管区制と呼ばれるもので、当市域はこの時、上桜井村連合(八か村)、豊田村連合(五か村)、中妻村連合(八か村)、関本上村連合(八か村)、神岡下村連合(四か村)、平潟村、大津村の七区画となった。この制度は明治二十二年の町村制までつづく。