明治五年(一八七二)太政官布告第二四号をもって「邑ニ不学ノ戸ナク、家に不学ノ人ナカラシメン」と学制が公布され、近代的な教育制度確立への途が開かれた。
北茨城地方において学制による公立学校が具体化されるのは明治六年のことで、ほとんどの学校はこの年七、八月に創立された。
小学校の「開業」にあたっては、村の戸長、副戸長らが中心となり、県庁に私学開業願を提出し、それが許可されて小学校が誕生する。開業願には、私学位置・学校費用概略・教員履歴・教員給料・学科などが記されていた。
発足当時の小学校はすべて私学で、その修業年限は、下等小学四年・上等小学四年に定められており、下等上等それぞれ八級より一級に分かれていた。
当時使用された教科書の主なものは『学問ノススメ』『童蒙おしへ草』『日本国尽(づくし)』『万国史略』『地理往来』『西洋衣食住』などである。明治十四年発刊された『小学読本』巻一の中には「人は六、七歳に至れば皆小学校に入りて、一般の学文を習うべし。小学校は士農工商とも皆習うべき学文を教ふる所なり」と書かれていた。
小学校発足当時就学児童数はどの位の割合であったか、八反の誠勤舎(せいきんしゃ)を例にとってみることにしよう。誠勤舎は山小屋村、八反村、関本上村、福田村四か村が連合して、明治六年九月に始められた学校である。明治七年頃の史料によれば、六歳より一四歳までの児童五三人が在籍していた。しかしこの児童数は四か村の就学学齢児童総数のわずか三割五分にすぎなかった。また男女の内訳をみると男子の就学率は五割以上になっているが、女子はわずか一割強にすぎない。就学率は以上のようであったが、在籍はしていても全く登校しない生徒も数多くみられるので、実際通学した児童はもっと少なかったものと思われる。