小学校教育制度の変遷

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上等下等に分かれていた小学校も、明治十二年(一八七九)の教育令公布により小学初等・中等各三年、高等二年と修業年限が改められ、初等・中等は六級より一級、高等は四級より一級となった。また前から設けられていた学区取締も廃止され、あらたに学務委員が設置された。この学務委員は各村の戸長が兼務するのが通例であった。

 明治十九年教育令が廃止され、小学校令が公布された。これにより小学校は尋常・高等の二種となり、就学児童も六歳から一四歳と定められ、この年齢に達した児童をもっている父母や後見人は、これらの児童に対し必らず尋常小学校を卒業させねばならぬ義務を負った。ただ学校経費にあてていた授業料は依然として大きな負担であったため、滞納者が多かったばかりでなく、女子の就学率も二割前後と低かった。

 明治二十三年十月、「教育勅語」が発布され、国家教育の基本方針が確立された。そのような時代背景の中で同年小学校令が改正され、明治二十五年より実施された。これにより尋常小学校四年間の義務教育の授業料は無償となった。その結果女子の就学率も向上した。たとえば関本地区の女子就学率は明治二十五年約二割から翌年は三割二分に、華川地区では同じく約二割三分より三割六分に向上している。


野口勝一編『小学作文楷梯』


卒業証書

 当時小学校で学習する学科としては修身・読方・作文・習字・算術・体操などが定められていたが、地域の実状によって図画・唱歌などの教科を加えることが認められていた。明治三十三年(一九〇〇)小学校令が改正され、尋常小学校の修業年限は四年と確定し、高等小学校は二年から四年となった。またこの改正で、読方・作文・習字などが国語に統合整理されていった。

 さらに同四十年三月小学校令の改正が公布施行され、尋常小学校の義務教育修業年限は六年に延長され、学制発布以来の教育は確固たるものとなった。


山小屋小学校


賞状