勝一は、嘉永元年(一八四八)十月、磯原村の野口友太郎の長男に生まれた。幼名紋弥、通称友次郎、名は勝一、また勝素。北巖、珂北などと号した。野口家は古くから水戸藩の郷士で、尊王の志厚い人々を輩出したが、勝一も幼少よりその影響を受けて成長した。
維新後、勝一は教育界に身を投じ、一時期多賀郡大久保小学校に勤務したが、その後茨城県拡充学校(師範学校の前身)を卒業し、明治八年(一八七五)一月には、那珂郡額田小学校に奉職した。その後同校を四月に退職し、福島県に出仕、本県に帰ってからは新聞界に身を投じた。
明治十一年、「茨城新報」に幹事として名をつらねるが、やがて同十四年、「茨城日日新聞」を創立して社長となった。この年県会議員となって政界に入り、議長の椅子に就くことになる。しかしその後は方針を変えて農商務省に入り、官報報告掛などをへたのち、また政治の世界に戻り、明治二十五年には自由党から衆議院議員に立候補、連続三期当選し、その活躍の舞台は全国的になった。
以上のような変転の多い生涯であったが、その間厖大な維新史料の収集や刊行、「風俗画報」などの発行をつづけて、文化の面でも大きな貢献をなし、明治三十八年五六歳で没した。