地方新聞が盛んに発行され始めたのは、明治五年(一八七二)頃からである。政府は、これを統制下において利用することを意図し、官に協力的な新聞の育成に積極的であった。こうして、たいていの地方新聞は、上意下達的な役割をも負わされたのである。
茨城県でも、明治五年十月、「茨城新報」が創刊されたが、これは一時休刊し、同十年に再刊された。そして翌年、「茨城毎日新報」と改題し、明治十三年九月までつづいた。この新聞社で、野口勝一は明治十一年九月から翌年四月まで幹事役をつとめている。勝一と、大津淳一郎らが組織した興民公会とのつながりははっきりしないが、勝一はむしろ新聞を通じて茨城県内の民権運動に指導的役割を果たした。
勝一は、明治十四年二月茨城新聞社をおこし、「茨城日日新聞」を発行した。この新聞は社名で「茨城新聞」と呼ばれることもあり、翌十五年五〇五号までつづいた。社長の勝一は、社説を始め多くの論説に筆をとった。
また勝一は、新聞社をおこして間もない明治十四年三月、県会議員の半数改選で議員に当選し、さっそく議長にあげられている。
この時の選挙では、多くの民権家が選出され、県会は彼らの交流の恰好の場となり民権運動の発展にも役立ったが、他方で民権家同士の対立も生み出していた。勝一は民権家としても議長としても、民権家の力の結集のために腐心した。勝一が二度にわたって板垣退助の来県を計画したのもそのためであった。二度とも都合があって板垣はこられなかったが、彼は関戸覚蔵や浜名信平らと自由党の結成に尽力し、明治十四年十二月自由党茨城部の結成大会を水戸常盤公園に開くまでにこぎつけている。
しかし勝一のこうした苦心にもかかわらず翌年五月の県会では、県北部の県議(山岳党と呼ばれた)と県南部の県議(河川党と呼ばれた)の対立が極限に達し、山岳党の議員全員が辞職するという最悪の事態をまねいてしまった。こうした民権家の分裂がすすむ一方で、民権運動に対する政府の弾圧は一層きびしくなり、民権運動は加波山事件などのような過激な事件をひきおこしつつ衰退していく。
一方勝一は、前述のように、県政から国政へと、活躍の場を広めていくのである。