勝一の一族からは、父友太郎、叔父西丸帯刀、新宅の野口正安など尊攘思想に燃えた活動家が輩出した。そのような野口家に育った勝一の民権思想には、尊攘思想が色濃くまつわりついていた。また、幕末の水戸藩の抗争にまきこまれた父友太郎が、遠く福島の瀬上宿(福島市)で斬殺されたために、勝一は明治元年(一八六八)、藩庁の力をかりて、父の仇を討ったという勇ましい話も伝わっている。
勝一の明治維新にもった関心は大変なもので、やがて東京へ居をかまえてから、その所を野史台(やしだい)と称し、維新史料の網羅的収集を始めた。これはのちに『維新史料』として刊行されたが、近年『野史台維新史料叢書』(東京大学出版会)として復刻されている。これらの史料は、尊攘思想に関係あるものが多いが、史料が豊富なので、幕末維新史研究には必須のものとされている。
また、このほかに「風俗画報」の刊行が注目される。当時の世情を絵画をもって後世に伝えようとしたもので、勝一は毎号、北巖野史、河北仙史などのペンネームで論説をのせている。
和漢の学に長じ、その生涯に作られた詩文などは未発見のものを加えると実に厖大な数にのぼるであろう。また勝一の撰になる記念碑、顕彰碑、墓碑の数も多く、茨城県内を始め、各地に現存しているが、これらは勝一の活動的一面を物語るものである。また画においては、ガマを描くことを得意とし、「蝦蟇仙人」、「蝦蟇将軍」などと別称されるほどであって、各地にガマの絵を残している。
このように多才な人物であった勝一は、芸術・文学に対する理解も深く、水戸出身の横山大観や、甥の野口雨情らを後援し、世に送り出したことはよく知られている。